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大村の歴史
 荒木 十畝(あらき じっぽ) 
  (写真1) 荒木十畝
(大村観光ナビより複写)
 (画像A) 寂光
(「東洋画論」の口絵写真を複写)
(画像B) 柏白鷹 (「荒木十畝 里帰り展」
図録の表紙写真の一部を複写)
荒木十畝(あらき じっぽ)   大村の誇り、日本画家の大家

ホームページ掲載にあたって
 
まず、今年2025年1月21日から2月24日の間、大村市歴史資料館テーマ展「荒木十畝」が開催されています。念のため、この「荒木十畝」の絵の展示は、今回だけでなく、過去何回も開催されています。また、この荒木十畝については、「大村の偉人、活躍人、有名人(もくじ)」シリーズ荒木十畝」ページにも掲載中です。本ページは、先のページと当然、重複した内容もありますが、一部補足しています。
2018(平成30)年1月発行、大村市美術協会会報(大村美協)第24号より
左側は8ページの上段、右側は大村美協題字
大村市歴史資料館テーマ展「荒木十畝案内HPより
  (写真2) 荒木十畝の生家(中央部の白柱は史跡標柱)

 あと、他の方々が記された詳細かつ正確な同氏の紹介文が多くの書籍類にあります。それらに比べれば上野のつたない内容ですが、次の寄稿文を以前書きました。それは、2018(平成30)年1月に発行された大村市美術協会会報(大村美協)第24号、8〜9ページの「
特別寄稿 大村の誇り、日本画家の大家 荒木十畝」という内容です。

 この寄稿文については、毎年開催の大村市美術展覧会(市展)で最高の作品受賞者に贈られる〈「荒木十畝賞」とは〉、〈大村の久原出身だった〉などをはじめ合計5節ほどで、主に同氏の紹介文を書きました。また、絵の方は、美術協会の坂中会長が主に用意して頂きました。

 今回、2025年1月20日に同会長の承諾を得て、先の特別寄稿文の本ページ掲載しています。なお、文章は全文を掲載していますが、絵については、先の「大村美協」と違う、あるいは様々な理由により掲載していないのもあります。その点は、あらかじめ、ご了承ねがいます。


 注:大村美協」の実物は、縦書きだが、今回ホームページ用に横書きに変えて、さらに分かりやすくするために一部、改行その他を変えている場合がある。

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「荒木十畝賞」とは
 大村市美術展覧会(市展)は、半世紀以上の歴史があり、その賞の中に「荒木十畝賞」があります。六部門の市長賞の中から選ばれる最高の賞です。

 この賞の由来は、大村が生んだ日本画の大家で、全国的に有名な荒木十畝(じっぽ)先生の偉業を顕彰し、その名を大村市民に広く知って頂くために創設されたものです。第五十七回の今年の市展で、丁度十回目の賞となりました。

大村の久原出身だった

 私は、荒木先生と言えば、日本画家の大家・横山大観と並び称される著名な画伯としか知りませんでした。今回、「大村史話(下巻)」を参照して、先生の略歴を調べてみますと、次の通りであることが分かりました。

 明治五年(一八七二)、当時の長崎県東彼杵郡大村久原郷(現在の大村市久原二丁目)の生まれで、朝長悌(てい)二郎(じろう)と命名されました。四人兄弟の次男で、先生の父母とも教育者でした。生誕の地は、現在こそ住宅地ですが、それ以前は、生家周辺に百日小路(百人衆小路)があり、昔は古い屋敷にこんもりとした木立があって、静な落ちついた小路だったそうです。

 実際、今でも当時の雰囲気は感じられる所で、近くの見晴らしの良い高台から遠くは西彼杵半島、大村湾、玖島(大村公園)、臼島、近くは林や畑も見えます。それに当時は春夏秋冬の草花も、今以上に多かったことが推測されます。このような郷土の自然豊かな情景や山川草木が、後の画風に影響あったことは、想像に難くないことと思われます。

20180104araki-jippo-seika01

上京後、荒木十畝となる
 先生は中学の頃、友人に黒板勝美氏(後の東京大学教授で歴史学者)がおられ、互いに励ましあって勉学していたと伝わっています。画家になるため明治二十五年(一八九二)二十一歳の春に上京、画家の荒木寛(かん)畝(ぽ)の門弟となり、十(じっ)畝(ぽ)の名前をもらわれ、ますますその画才を発揮するようになりました。入門の翌年、寛畝の養子となり荒木十畝と名乗るようになりました。
生家にある大村中学生頃の絵(松) (2018年2月8日撮影)
生家にある牡丹の絵 (2018年1月4日撮影)

 二十三歳の時、優秀な画家たちの集まる日本美術協会の会員となり、明治二十八年(一八九五)には、同協会の展覧会で「朝顔と維子(きじ)」が最優賞となり、幹事に推挙されました。

 さらに、明治三十年(一八九七)二十六歳の時には、当時の女子高等師範学校(お茶の水女子大学)の教官(教授)となられ、大正八年(一九一九)まで二十余年間にわたり女子情操教育に精励されました。その後も様々な役職を歴任されました。代表作の『黄昏』や『寂光』を始め、長年数多くの作品を精力的に描かれています。また、著作では、『東洋画論』も出版されています。昭和十九年(一九四四)九月十一日に永眠されました。享年七十三歳でした

花鳥風月が得意だった
 荒木先生の画風を評する場合、どの書籍類でも「花鳥画が得意だった」との表現がしてあります。実際その通りで、先の代表作二例含め、「大村史話(下巻)」の作品年譜を見ても、ずらりと花鳥名称類が並んでいます。

 (画像A) 寂光 (「東洋画論」の口絵写真を複写)


 この画像は、準備中。

(画像B) 
 先生が継承された荒木一門の画風は、「南北合派」と称されています。その画風をたどれば、江戸時代の文化文政時代頃より始まった谷文晁(ぶんちょう)(江戸後期の名画家)の流れからのようです。特徴は、狩野派、土佐派、南宗画、北宗画、西洋画などの手法をとり入れた独自の画風と言われてきました。それを荒木先生が、さらに新しい日本画の創造に取り組み、高められたと思われます。

 私は、一九九九年秋、大村市立史料館で開催された「荒木十畝 里帰り展」で、先生の絵を始めて見ました。中でも、同時期発行された同展図録の表紙絵にもなった『柏白鷹』は、何度も見ました。柏の大きな葉っぱがついた枝に止まって、獲物を狙う鷹の目は、まるでレーザー光線を発するがごとく鋭く、白い羽は何百キロも飛翔できるのではと思える柔らかさで描かれていました。

大村から後継者誕生を望む


 (さらに原稿は続きます。写真なども含めて準備中ですので、しばらく、お待ちください)


・写真、資料引用先:中嶋親嗣氏の所蔵、ウィキペディア、東洋画論、大村史話(下巻)、大村市歴史資料館の図録、「参考書籍・資料一覧表ページ」 、 「大村史話(下巻)」(1974年12月15日 大村史談会・編者) 、「荒木十畝 見返り展(図録)」、 国立国会図書館デジタルコレクションの「東洋画論」 、 (書籍の)「東洋画論」(1941年11月20日発行) 、 「大村市ホームページ」

・関係ページ:大村市立史料館・企画展 大村人グレート  

(掲載日:2025年1月24日、第二次掲載日:1月27日、第三次掲載日:2月3日、第四次掲載日:2月6日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)


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