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(長崎県大村市今富町)帯取遺跡発掘調査 現地説明会(鍛冶工房跡などの概要報告)

(写真1) 帯取遺跡発掘調査 現地説明会、右側:柴田氏(学芸員)が鍛冶工房跡を説明中。左側や奥側は見学者
 
(写真2) 左奥側:柴田氏の説明中。(同氏の前に鍛治炉跡が三つ、右側方向=建物中心部一つの鍛治炉跡がある)
(写真3) 建物北東部に3か所ある鍛冶炉跡(金属探知機に反応)
中央部左側の小さな(みぞ)は水の侵入防止用
(写真4) 建物中央部に1か所ある鍛冶炉跡(金属探知機に反応)

帯取遺跡発掘調査 現地説明会(鍛冶工房跡などの概要報告)
期間:2020年2月11日 12:40~
場所:長崎県大村市今富町287(帯取遺跡発掘調査現場)
主催:大村市教育委員会
参加数:
(目算で)約200名

概要:下記は、現地説明会で配布された資料を引用・参照し、さらに説明された内容含めて書いている。
(1)名称:帯取遺跡
(2)所在地:長崎県大村市 今富町287番地

(3)調査主体:大村市教育委員会
(4)調査:宅地造成時に伴う帯取遺跡範囲確認調査

(5)主な説明:出土した鍛冶工房跡(かじこうぼう)遺物など
 注:鍛冶とは、「金属を叩いて道具に加工すること」をいう。念のため、鉄を製造する製鉄所ではなく、あくまでも既にある鉄を叩き加工して、例えばナイフや錐(きり)など様々な鉄器を作ることである。

今回の成果:鍛冶工房跡の発見
 約1700年前(弥生時代末~古墳時代初頭頃)の鍛冶工房跡が発見された。同時代の鍛冶工房跡の出土は、長崎県内で壱岐市のカラカミ遺跡についで、2例目で珍しいことである。その工房跡の広さは、7メートル四方の竪穴式建物であった。この建物内に、4つの鍛治炉(かじろ)がある。注:は「鍛冶炉(かじろ)」とは、鉄に加熱・溶解などできる装置のこと>この鍛治炉は、建物中央部に1つ、北東部に3か所ある。

 なぜ、この場所が分かったのかというと、それは、先の鍛治炉に金属探知機を当てると、反応したからである。また、この鍛治炉は、白・オレンジ・赤色と同心円状に色調が変化している。なお、ここを鉄製小型スコップで叩く実演があったが、他の普通の土(泥)に比べ、カンカンと金属製の音が出ていた。

建物中心部に一つ、北東部に三つある鍛冶炉跡について
 今回発見された4つの鍛治炉(かじろ)の状況を、建物の中央部北東部(2か所)に分けて、まとめると下記の通りである。

(写真5) 左側下部:3か所、右側に1か所鍛治炉跡(やや赤白く変色している所)

・建物中心部に一つある鍛治炉跡
 建物床面をそのまま鍛治炉の底として使用したもので、約1mの円形状で、中心から外側にかけて、白色、オレンジ、赤色と同心円状に色調が変わっている。(白色へいく方が熱が高かったとのこと)

・建物北東部に三つある鍛治炉跡
 建物床上に粘土を張って鍛治炉の底としたもので、長さ約0.5~0,7m、幅約0.4~0.6m、厚み約5cmの不定形である。被熱によってスコップが通らないほどに硬くなっていて、叩くと金属音がするほどである。この部分は白色、オレンジ、赤色と同心円状に色調が変化している。(白色へいく方が熱が高かったとのこと)

 この北東部の鍛冶炉の一部には、幅約20cmの小さな溝(みぞ)に囲われていて、水の侵入を防ぐ役割があると考えられる。<(写真3)の中央部左側にあるを参照>
 鍛治炉の底が高温で焼けている状況からして、いずれも(ふいご=)を使用していたことが分かる。(注:(ふいご)=「金属の熱処理や精錬に用いる送風器」、広辞苑の解説より)

出土した遺物の写真と説明
 この項目、下記に掲載しています帯取遺跡から出土した遺物の写真と、その名称などです。その遺物について、当然、現地説明会で、一つひとつ丁寧に教えても頂きました。しかし、私は、その内容を覚えきれていないので、その点は、ご了承願います。

 また、下記写真は、展示されていた遺物をできるだけ見やすく(大きく見せる)するため、トリミング時に1枚づつ縮尺比率を違えています。つまり、同一写真内の大きさは、見えたままですが、各写真間では見えているサイズは違いますので、参考程度に願います。

(写真A) 土器:弥生時代末から古墳時代初頭 (写真B) 石器・石材砥石(といし、左側)石錘(せきすい、右側)
(写真C) 鉄器棒状鉄器片(右側) (写真D) 鉄器刀子(とうす)
(写真E) その他:比熱した石材  (写真F) その他:鉄が付着した石材 

鍛冶工房跡の発見の意義と重要性など
 この項目は、現地説明会で配布された資料を引用して、下記に転記しています。なお、原文の趣旨を変えない範囲内で、ホームページ上、見やすくするため改行、句読点、平仮名などを変えています。また、ご参考までに、下段の方に鍛冶工房跡(かじこうぼうあと)が、先に発見された長崎県壱岐市にあるカラカミ遺跡と、兵庫県淡路市にある五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)の状況も、リンク先から閲覧できるようしています。

(写真5) 左側下部:3か所
右側に1か所鍛治炉跡
(やや赤白く変色している所)

鍛冶工房(かじこうぼう)の意義
 ・建物の構造が良好に残っていることから、 当時の鍛冶工房(かじこうぼう)の実態を具体的に検討できる意義があります。

 ・弥生時代から古墳時代前期にかけた鍛冶炉(かじろ)は大きく分けて、下部構造を持つタイプと持たないタイプがあり、帯取遺跡のものは下部構造を持たな いものに該当します。

 下部構造も持つものは、ないものに比べて炉(ろ)の温度を高温にすることができるため、大型の鉄器<鉄戈(てっか)、鉄剣(てっけん)、斧(おの)など>を作りました。

 ・今回発見した下部構造を持たないものでは、鉄鏃(てつぞく)や小型工具類<刀子(とうす、ナイフ)、鑿(のみ)、、錐(きり)など)を作りました。今回発見した鍛冶工房(かじこうぼう)は、ムラで使用する小型の鉄器を作るための工房と考えています。ただし、当該期の鉄器の出土は本市では少なく、どのような道具構成であったかは、今のところ定かではありません。

 ・今回の発見は弥生時代末から古墳時代初頭にかけた時期に、市内で小型鉄器の生産に対応していた証拠であり、鍛冶の技術や普及を考える上でも重要な成果を提供しています。

----------<鍛冶工房跡の関係ページ>----------
・長崎県壱岐市勝本町立石東触 カラカミ遺跡 (弥生時代、約2000年前)
 参考:壱岐市、広報 2018年4月号(pdfデータ)
 参考:「長崎県の遺跡大辞典」の『カラカミ遺跡(からかみいせき)

・兵庫県淡路市黒谷 五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき) (弥生時代後期の鉄器生産遺跡)
 参考:「淡路島日本遺産」ページの『五斗長垣内遺跡と出土品(ごっさかいと いせき と しゅつどひん)

(写真6) 鍛冶炉跡の説明中 (左奥側は見学者の一部)

現地説明会での質疑応答
 帯取遺跡の現地説明会で、質疑応答の時間がありました。その場所は、鍛冶炉跡(かじろあと)周囲と、遺物展示場でした。その中で、鍛冶炉跡(かじろあと)について、順不動ながら下記の質疑応答(Q&A)が、見学者と説明者間でありました。

 ただし、下記内容は、私のメモから書き写したものですから、正確性に欠けているかもしれません。また、全部を覚えていないことから、質疑応答の一部のみを書いています。そのようなことから、あくまでも参考程度に願います。

Q1:鉄製品だけだったのか?
A1:青銅器などは出土していない。

Q2:(鍛冶炉の発見は)下見で見つけたのか、偶然だったのか?
A2:掘ってみない分からないものだ。

Q3:この遺跡(鍛冶炉跡)は、保存するのか?
A3:埋め戻し盛り土して、その後は住宅地になるだろう。

Q4:どのくらい掘り下げたのか?
A4:(見ての通りで)40~50センチ位だ。

Q5:(鍛冶炉は)竪穴式(たてあなしき)住居だったのか?
A5:大屋根形式だったと思われる。

上野の感想など
 まず、帯取遺跡から長崎県内では2例目という珍しい鍛冶工房跡を発見、発掘して頂いた大村市教育委員会・文化振興課の学芸員さんや発掘作業された全員の皆様へ、感謝申し上げます。素人ながらも地元で郷土史活動をしている者として、感動と、福重地区(旧・福重村)の歴史の豊かさや奥深さを改めて再認識しました。

 長く書けば、本ページ(上記)内容と重複してきますが、今回の現地説明会以降では最初の第80回 福重郷土史同好会・例会(2020年3月18日)で各自から出された意見で特徴的な内容だけを、私達の感想として紹介します。

 (1)地元で(身近に)この時代としては、珍しい鍛冶工房跡が発見されたのは、感動した。また、大勢の見学者(約200名)に説明会(今富町)に来て頂き、嬉しかった。

 (2)この帯取遺跡はじめ同じ今富町にある黄金山古墳、冷泉寺跡や墓地周辺の小高い所(いわゆる「帯取の丘」)は、あまり回数多くは発掘されていなかった場所で、しかも古い土地柄でもあるので、それらの周辺から、また何か出土するかもしれない。

 (3)約1700年前(弥生時代末~古墳時代初頭頃)の鍛冶工房跡が発見されたということは、従来説より今富町・福重地区や大村への技術や情報(仏教文化含めて)伝播(でんぱ)・進展は、もっと速く古かったのではないのか? (歴史の地域での発達は)福岡や佐賀と、大村市郡地区(竹松・福重・松原の3地区)は、あまり地域差がないのではないか?

などでした。この(1)~(3)は、素人の郷土史愛好家が考えた意見ですので、全部がぜんぶ正しいとも現時点では言えないでしょう。今後に期待しつつも、冷静な考古学的発見によっての新展開を見守りたいと思っています。

 福重には高見米一(大村で本格的な通史を初出版)、深草静雄(様々な事柄を調べ発表)、増元義雄(「ふくしげの歩み」などを出版) の3先生が、言ったり、書いたりしてこられた説や内容は、大村市内の現行説では否定的に扱われてきました。しかし、近年の竹松遺跡、今回の帯取遺跡あるいは福重・松原の古い石仏群などの考古学によって、今後の進展によっては、裏付けられるのではないかとも思えます。
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 本ページを閲覧して下さった皆様、ありがとうございました。今後も何か上記内容の追加、改訂、補足などあれば掲載していきたいと考えています。

・参考ページ
(帯取遺跡近くの名所旧跡など):「黄金山古墳(こがねやまこふん)」  「不動尊(ふどうそん)」 「冷泉遺跡

(第一次掲載日:2020年2月13日、第ニ次掲載日:2月17日、第三次掲載日:2月26日、第四次掲載日:3月5日、第五次掲載日:3月15日、第六次掲載日:3月22日、第六次掲載日:3月25日)

 
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