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大村市内の主な古墳跡(『おおむらの史記』10ページより)
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大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより)
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古墳と神社仏閣の場所は、なぜ共通項が多いのか?
私は、2003年秋から2004年春にかけて開催されていた福重郷土史講座を聴講した時に講師の増元氏から、「福重の古墳跡や寺院跡などは、近くに水があって見晴らしがいい所に多くがあった」と教えて頂きました。その後、このページ右の上側(大村市内の主な古墳)や下側(大村市・郡地区にかつて存在した”郡七山十坊”などの仏教寺院)に図示されている場所を実際に歩いてみました。
今となっては現在位置が分かりずらい所もありましたが、ほぼ、右側二つの地図に示されている所は、全部まわってみて改めて共通項らしきものを実感できました。
先に、それを箇条書きにまとめますと、次の通りと思われました。ただし、平地(低地)は除いて丘陵地帯にあるものだけです。
1)周辺が穀倉地帯であること。
2)見晴らし(眺望)が良い所であること。
3)泉(小川含む)が近くにあり水が入手しやすいこと。
4)周辺からは他の遺跡も出土すること。
5)(構造物を作りやすい)石や木が近くにあり、寺院なども造れる広さがあること。
上記の補足になりますが、1)〜5)の環境・条件は一言でいって「人が住みやすい所」とも共通しています。ただし、いくら人間に水が絶対必要と言ったとしても、川の直ぐそばなら洪水で流される可能性もありますので、そのような場所ではありません。
また、いくら2)のように見晴らし、眺望が抜群に良いからと言っても、(山岳密教を除き)山のてっぺんに古墳や寺院を造るはずはありません。なぜなら、日常不断に登山みたいにしてお参りにいけないからです。
あと、何を造るにも人や馬などを主力にしていた時代に、何かの構造物の運搬や製作をするにしても、はるか遠くから手に入れることは特殊な物を除いて困難を極めたと思います。そのようなことから出来るだけ近くにある石材や木材を使用して色々な構造物は造られていたことが推定されます。
丘陵地帯に神社仏閣が多かった理由の補足:「災害対策・緊急避難場所の要素もあったのでは?」
先ほどの川などの直ぐ近くではなく、むしろ丘陵部に多く神社仏閣が造られています。福重地区、松原地区、萱瀬地区などの神社仏閣(権現様含む。以下同じ)の海抜は、平坦な町内を除き、 それ以外の町では小高い所や海抜約40m〜約90mの位置にずらっと並んでいます。このことは私の推測ながら、水害などの災害を回避する目的もあったので小高い所や丘陵地帯が神社仏閣の適地として先人は選ばれたのではないでしょうか。
また、このような丘陵地帯に神社仏閣が、何故あるのかと言いますと、例えば火事、地震、水害や崖崩れなどがあった場合、緊急避難場所、災害対策の要(かなめ)の要素もあったのではないかともと推測できます。
それは、現代風に直しますと地区住民センター、各町内の公民館の役割と同じようなものです。実際、福重地区10町内にある現在の公民館のほとんどが、戦後しばらくしてから建設が進みました。それまでは、各町内(各班・各組内別)に、その地域にある権現様の建物や敷地が公民館の役割を果たし、町内会なども開催されていました。
そのため、多くの権現様の建物が、諸会議ができるように現在より相当広く、大きいものでした。これは戦前だけの話ではなく、江戸時代含めて、それ以前より活用されてきたと推測できるものです。野田町の本蔵権現の例ですが、建物が現在より約2倍の広さがあり、町内のほぼ全ての会議が開催されていました。1953年の公民館開設後は、町内の諸会議は全て移管されました。
あと、(現在の行政単位の)同じ町内に3社も4社も権現様があるのは、確かに宗教上の理由もあるのかもしれませんが、5軒位〜10数軒の小規模の方が、権現様を祀るのに動きやすく、まとまりやすく、また為政者にとっては管理もしやすい単位だったのかもしれません。また、さらに推測を巡らすと緊急避難や災害時対応などは、例えば数十軒づつとか大きな単位では、権現様の広さの関係もあるので、先の戸数程度が限度いっぱいとも思えました。
繰り返しになりますが、このようなことから権現様の建物や敷地は、その地域での火事、地震、水害、崖崩れなどがあった場合、大昔から緊急避難場所や災害対策的なことで活用できる要素が大きいという推測もできます。その他の神社仏閣も、規模や地域は違っていても災害時などでは、ほぼ同様な意味や役割などがあったと思われます。そのため、自然災害に影響されにくい場所=丘陵地帯が、神社仏閣の適地だったとも思われます。
水の確保と眺望の良さは大事な要素
先に述べた1)〜5)の項目で、さらに注目すべきは、2)の眺望が良い所と、3)の水の確保です。この二つの項目とも古墳や寺院の存在と一見何も関係ないように思われますが、実は必要条件とも思われます。
まず、水の確保の件ですが、古墳にしても神社仏閣にしても、お参りあるいは宗教的儀式・行事などにも水は必要です。さらには住職を始めとして寺院周辺に人が住むなら、水はどうしても飲料・生活用水としても必要不可欠と言えます。
私は、福重地区内に元あったと言う例えば古墳なら「地堂古墳」(今富町)あるいは寺院なら「唐泉寺」(福重町)の跡などの見学に行った時、地元の方にお聞きすると「あそこの家には泉が湧き出ている」と教えてもらい、実際に見ました。(右側一番下の写真は福重町にかつて存在した唐泉寺跡周辺に今もコンコンと湧き出ている泉の写真です) そのようなことから、右側の地図に示されている寺院跡周辺には、どこも水の確保と言う点からすれば可能な場所と言えます。
あと、見晴らし、眺望が良い所の件ですが、これは古墳については、その当時の豪族が自分の支配していた所を死んでも眺めながら眠りたいとかの理由もあるかと思います。 この件で野田古墳(上野調べで5基出土)は、海抜70〜80メートルの眺望のいい所にありましたが、いずれも当時、今富の耕作地を支配していた豪族(親族)の墓と言われています。まさしく、死後も自分が支配していた場所を見たかったのではないでしょうか。
神社仏閣にしても、境内が引っ込んだような低地より、見晴らし、眺望の良い所が宗教的意味合いにしても、その場所の価値観からしても当然のことと思われます。ここで仮に大村純忠時代のキリシタンが神社仏閣を焼き打ち、破壊、略奪などをする以前とします。この当時なら大村湾の船上から松原・福重地区の丘陵地帯を眺めたとしたら、海抜50〜80メートル所に10近くの寺院が直線状に並んで見えた可能性もあります。
逆に、その境内からは、その寺院が支配している耕作地あるいは大村湾などが良く眺められたとも思えます。これまで述べました共通項は、何もキリシタンが神社仏閣を焼き打ちする以前だけでなく、その後の江戸時代含めて、丘陵地帯に建設する時の必要条件みたいにも思われます。
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中央左側、妙宣寺 |
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唐泉寺跡周辺にある泉
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(江戸時代創建された)妙宣寺移転の理由にも
このことについて、江戸時代に(1602年)創建された妙宣寺(福重町)について、大村郷村記(江戸時代に編纂された大村藩領の総合調査報告書)に次の「 」内の記述があります。
「 (前略) 今の極楽寺の地にあり然に此所駅路に近く又水の勝手不便なるゆへ別に清浄の地を見立同十九甲寅年三月廿五日寺を皆同村矢上の里に移し深重山妙宣寺と号し (後略) 」
上記を現代語訳すると概要、次の<>内の通りと思われます。ただし( )内は、上野の注釈・補足文です。
< (妙宣寺は最初)(現在の大村市宮小路町あたりの)今の極楽寺にあった。ただし、ここの場所は(長崎街道の)道路近くで(賑やか過ぎて)、しかも水の確保が不便だった。それで(水の確保も出来る)静かな所を選定し1614年3月25日に寺を皆同村矢上郷(現在地の福重町)に移し、深重山妙宣寺と呼んだ >
つまり、 妙宣寺移転時の内容が書かれた古文書(大村郷村記)にも、移転理由や条件として水の確保と静かな所と書いてあります。この「清浄の地」は拡大解釈すれば賑やかな平地よりも静かな丘陵地帯(=眺望が良い所)とも理解できるものです。そして妙宣寺の移転の結果は、現在地(福重町)ですが、その条件通りになっています。
その地域の中心地でもあったのでは
中世時代の”郡七山十坊”と呼ばれて松原・福重・竹松地区にたくさんあった仏教寺院は、宗教上の施設だけでなく現代風に分かりやすく表現しますと税務署と市役所みたいな役割でした。特にそのことは、当時存在した京都・東福寺と仁和寺の荘園があったことからも、より一層その役割がわかりやすいと思われます。つまり仏教寺院は、狭い限定的な地域ながら、その地域(村や郷単位)の中心地的役割も果たしていたのではないかとも思われます。
以上述べてきました通り、現在の大村市、松原・福重地区などの丘陵地帯にかつて存在した古墳や神社仏閣跡など(現在も数多くある権現様含む)は、上記の1)〜5)に示した共通項と関係した所に存在したものと思われます。さらに神社仏閣(権現様含む)は建設後、その地域で火事、水害、崖崩れなどがあった場合、大昔から緊急避難場所や災害対策的なことで活用されてきたことも推測できます。
また、このような場所は、余程の変化がない限り、先に述べた眺望が良いことや水(泉など)は、現在でも変わらぬまま存在している可能性が大きいため、その地域の歴史を調べる上で、一つのキーポイントとも言えるのではないでしょうか。
(掲載日:2008年12月1日、第二次追加掲載日:2011年9月5日)
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