「権現」とは、国語辞典の大辞泉によると、< 1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること。 2 仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類。 >と、書いてあります。
下記に大村郷村記を引用しながら、この野田の本蔵権現について、紹介します。下記の「 」内が、その文章です。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)
「 野田 一 本蔵権現
神躰石坐像 例祭九月十三日 宝円寺勧請 氏子中祭之
石祠
拝殿 弐間梁三間 萱宇
石鳥居 壱基
境内 拾八間方程
当社は元佐奈河内にあり 此処村より隔リ諸事不勝手なるゆへ 万治元年戌年九月此地に奉還座開眼導師観音寺法印寛盛 享保四巳亥年拝殿一宇再建安永二巳年再建 文化五戊辰年九月石祠に建立 」
上記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。
< 野田 本蔵権現 ご神体は、石の坐像である。例祭は(毎年)9月13日に宝円寺に来てもらって執りおこなわれている。石の祠がある。拝殿は、横3.6メートル、奥行き5.4メートルである。石の鳥居が、一基ある。
当社(野田の本蔵権現)は、元(の位置は)佐奈河内にあったが、この村より遠く、色々な行事をするため不便なため、万治元年(1658年)九月この地に移した。享保四年(1719年)、拝殿を1回再建し、さらに安永二年(1773年)にも再建した。文化五年(1808年)には、石祠を建立した。 >
元々は立福寺の佐奈河内にあった
先に述べた通り、この野田の本蔵権現は、元々(当時の龍福寺郷=現在の立福寺町)佐奈河内(さながわち)にありました。この権現様のあった地点がどこななのか探していたところ、佐奈河内と言う地名(字)はあるのですが、この地名の所は広いため、場所の特定まで最初は分かりませんでした。
それでも、立福寺町の方々にお聞きしたところ、松添さん宅周辺に「堂山(どうやま)」と呼ばれる所があることを教えて頂きました。。念のため、この「堂山」は、地名(字)ではありません。ただし、堂山の「堂」は通常、神社やお寺などの「本堂」などの呼び名から来ている場合が多いです。
そのことから(これから私の推測ではあるのですが)この「堂山」付近は、当時の「佐奈河内大権現」のあった場所、もしくはその堂の裏山、あるいは拝殿を建てるために木材を切り出した山と言う由来があるように思われます。
いずれにしても、この場所は野田郷の集落から遠いため、万治元年(1658年)9月に現在地に移されました。また、野田町の古老からは(大村弁で)「あん、本蔵の権現様は元おらした佐奈河内の方ば向いて立っておらすと、先祖様から聞いたバイ」と言っておられ、そののような伝承があることも知りました。
2007年現在、移転後から通算しても約350年になります。元の佐奈内河にあった年数は不明ですが、拝殿の創建直後に移したのではなく、しばらくしてからと思われますので最低でも400年以上の歴史がある神社と考えられます。
拝殿は、江戸時代も、それ以降も50年位から80年位ごとの間隔で改築されたと思われます。 なお、1953(昭和28)年、現在の野田町公民館が出来るまでは、ここで各種会合が開催されていました。拝殿内も、そのような会合ができるように、今より倍くらい大きかったということです。現在も毎年秋の例祭を初め、各種行事がおこなわれています。
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