大村の歴史
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陰平町の経塚 |
(写真1) 陰平町の経塚 (中央部の石組の上は摩利支天) | ||||||||
陰平町の経塚
概要紹介
ですから、先の広辞苑に解説してある末法思想の流行時と、年代が違うのかもしれません。しかし、'地域伝承とは別の説として、2020年2月29日、行政書士記念公開講演会 (中世山城の講演)の時に、講師の大野 安生 氏(大村市文化振興課長)は、「 (前略) これは(スライド写真の)鈴田の経塚である。 (中略) これらの(経筒の埋まっている)経塚は、本来、平安時代末期〜鎌倉時代初期に末法思想や蒙古軍襲来で平安を祈願して造られたものである。(後略)」とも述べられています。 つまり、地域伝承通り戦国時代、キリシタンによる他宗教攻撃事件の時に仏教の経文(経典)を守るために埋めた説もあります。しかし、地域伝承は文書類に比べ途中で変わる可能性もありますので、本来は末法思想流行時(平安時代後期〜鎌倉時代初期)に経塚が造られたにも関わらず、伝承が変わったのかもしれない説もありうると思われます。 これ以上は、現時点では分からないということです。いずれにしても、土地所有者の方が長年大事に守ってこられたおかげで、大村市内では現存する唯一の経塚、県内でも数少ない事例ですので、今の状態で今後も継続、保存されればと祈念しています。
陰平町の経塚は、周囲を含めた全体から見ると、下記の3項目に分けられる。 (1)摩利支天と土台の石組 (2)石組周囲の平地 (3)平地周囲の傾斜地(今は雑木林) 今回(3)を除き、その広さや大きさの概要を下記に書いている。 (注:平地の大きさは目測及び歩測によるもので参考数値である。写真1、2、3、4も参照願いたい) (1)摩利支天と土台の石組 注:摩利支天の碑文や大きさの詳細な紹介は、別の「大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など」シリーズに掲載する予定である。ただし、本ページでは、摩利支天の大きさのみを下記に書いている。 ・摩利支天の大きさは高さ:59cm、横幅:33cm、胴囲:85cm(最大値部分)。 ・石組について 石組の大きさは高さ:1m5cm、横幅:3m50cm、奥行:3m50cm (石組の乱れはあるが、全体ほぼ四角形状 ) 段数:自然石でサイズも大小あるので数えにくい。(最底部からなら10段位、高部なら5段位か?) (2)石組周囲の平地について 石組(経塚)周囲に広がっている平地の東西南北の端が、どの地点か視認しにくいが、広さの概要は次の通り。 平地の広さは直径約17m(ほぼ円形) ご参考までに、石組周囲に大木が4本あり、それ以外にも平地周辺には、大小の木が林立している。(写真1、3、4参照) (3)平地周囲の傾斜地 この平地周囲は、傾斜地である。そして、今は雑木林となっていて、かなり広い。そのため目測もしていない。 (後半原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい) |
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補足
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初回掲載日:2020年6月26日、第2次掲載日:7月25日、第3次掲載日:7月27日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日 |
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