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大村の歴史
 陰平町の経塚
(写真1) 陰平町の経塚 (中央部の石組の上は摩利支天)

陰平町の経塚
 注:経塚とは、「経典を永く後世に伝えるため、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚を築いたもの。上に五輪塔などを建てることもある。経石・瓦経なども埋納する。」(広辞苑より)

(写真2) 経塚の中央部(石組) 石組上部は摩利支天

概要紹介
 
まず、「住みよい町づくり「チーム鈴田」設置の史跡説明板によれば、この経塚は、天正2年(1574)、キリシタンによって寺社の破壊が行われ、(陰平町にあった)久良寺がその暴徒に襲われた時に、経文(きょうもん)を持ち出して寺の東の山に埋めたのが、「経塚(きょうづか)」だと伝えられています。

 先の説とは別に、この経塚は、全国で平安時代の後期から鎌倉時代初期に流行した末法思想時に築かれたものではないかとの説もあるとのことです。 この経塚の石組の中央最上部にある摩利支天は、昭和28年(1953)に土地所有者の方が建立されたものです。このようにして、建立以来、大事に祀ってこられた経塚です。

 なお、末法思想流行時に築かれた経塚で福重地区にある例では、その下に経筒(きょうづつ、経典を入れた滑石製の筒)、そして、経塚の真上もしくは脇にあったのが滑石製平安仏(単体仏)がある例が多いです。 あと、大村市内で経塚が現存しているのは、ここだけで、県内でも数少ない例ともいえます。

経塚について
 本ページ冒頭に広辞苑を引用してい書いていますが、経塚とは、「経典を永く後世に伝えるため、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚を築いたもの。上に五輪塔などを建てることもある。経石・瓦経なども埋納する。」

 そして、この経塚が造られたのは、末法思想の流行時といわれています。末法思想とは、「末法に入ると仏教が衰えるとする予言的思想。中国では隋代頃に流行し、三階教や房山石経を生んだ。日本では平安後期から鎌倉時代にかけて流行し、人々を不安に陥らせる一方、仏教者の真剣な求道を生み出した。」(広辞苑より)とのことです。

(写真3)中央部:経塚(正面向かって右側面側=南東側から写す)
経塚の周囲は東西南北面とも上記写真のような平地である。
 今回の陰平町の経塚の地域伝承は、「チーム鈴田」設置の史跡説明板によれば、この経塚は、天正2年(1574)、キリシタンによって寺社の破壊が行われ、(陰平町にあった)久良寺がその暴徒に襲われた時に、経文(きょうもん)を持ち出して寺の東の山に埋めたのが、「経塚(きょうづか)」だと伝えられています。

 ですから、先の広辞苑に解説してある末法思想の流行時と、年代が違うのかもしれません。しかし、'地域伝承とは別の説として、2020年2月29日、行政書士記念公開講演会 (中世山城の講演)の時に、講師の大野 安生 氏(大村市文化振興課長)は、「 (前略) これは(スライド写真の)鈴田の経塚である。 (中略) これらの(経筒の埋まっている)経塚は、本来、平安時代末期〜鎌倉時代初期に末法思想や蒙古軍襲来で平安を祈願して造られたものである。(後略)」とも述べられています。

 つまり、地域伝承通り戦国時代、キリシタンによる他宗教攻撃事件の時に仏教の経文(経典)を守るために埋めた説もあります。しかし、地域伝承は文書類に比べ途中で変わる可能性もありますので、本来は末法思想流行時(平安時代後期〜鎌倉時代初期)に経塚が造られたにも関わらず、伝承が変わったのかもしれない説もありうると思われます。

 これ以上は、現時点では分からないということです。いずれにしても、土地所有者の方が長年大事に守ってこられたおかげで、大村市内では現存する唯一の経塚、県内でも数少ない事例ですので、今の状態で今後も継続、保存されればと祈念しています。

(写真2) 経塚の中央部(石組) 石組上部は摩利支天
(写真4) (裏側から写す)左右の大木の間が経塚
中央部に摩利支天石組が見えている。周囲は平地と傾斜地。
広さ、大きさなど
 陰平町の経塚は、周囲を含めた全体から見ると、下記の3項目に分けられる。
 (1)摩利支天と土台の石組
 (2)石組周囲の平地
 (3)平地周囲の傾斜地(今は雑木林)

 今回(3)を除き、その広さや大きさの概要を下記に書いている。 (注:平地の大きさは目測及び歩測によるもので参考数値である。写真1、2、3、4も参照願いたい)

(1)摩利支天と土台の石組
 注:摩利支天の碑文や大きさの詳細な紹介は、別の「大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など」シリーズに掲載する予定である。ただし、本ページでは、摩利支天の大きさのみを下記に書いている。

・摩利支天の大きさは高さ:59cm横幅:33cm胴囲:85cm(最大値部分)

・石組について
 石組の大きさは高さ:1m5cm横幅:3m50cm奥行:3m50cm (石組の乱れはあるが、全体ほぼ四角形状 )
 段数:自然石でサイズも大小あるので数えにくい。(最底部からなら10段位、高部なら5段位か?)

(2)石組周囲の平地について

 石組(経塚)周囲に広がっている平地の東西南北の端が、どの地点か視認しにくいが、広さの概要は次の通り。
 平地の広さは直径約17m(ほぼ円形)

 ご参考までに、石組周囲に大木が4本あり、それ以外にも平地周辺には、大小の木が林立している。(写真1、3、4参照)

(3)平地周囲の傾斜地
 この平地周囲は、傾斜地である。そして、今は雑木林となっていて、かなり広い。そのため目測もしていない。




 (後半原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい)


補足



 (この原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい)

 

初回掲載日:2020年6月26日、第2次掲載日:7月25日、第3次掲載日:7月27日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日

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