2015年、福重小学校・平和集会(概要報告) (上記写真は長崎原爆投下時間に合わせ黙祷中)
日時:2015年8月9日
・講話(4・5・6年生対象)10:00〜10:15 参加:約150名
・平和集会(全校生徒)10:20〜11:20 参加:約300名
場所:福重小学校・体育館
<講話>(テーマ:福重飛行場にまつわる悲しい出来事二つ)---講師:上野
(約70年前にあった海軍の福重飛行場と不発弾処理の2枚の写真をホワイトボードに掲示。下記右側写真は講話中のもの)この福重飛行場は今富町と皆同町にまたがって、幅30m、長さ900mの滑走路だった。大きい飛行場だった大村海軍航空隊が空襲を受け、使えなくなくなったので突貫工事で昭和20年春に出来て、戦後も5年間ほど使用されていた。この福重飛行場にまつわる悲しい出来事を二つ話したい。
一つ目は、この福重飛行場ができたため当時あった福重小学校は引っ越しさせられ、1年近く勉強、体育も遊びもできなかった。そして、高学年は近くの郡川から滑走路用の石運びをさせられた。先生方も教えることが出来ず、通知表も付けられない学期があった。つまり、約1年近く、学校が学校でなくなったのである。
二つ目は、この福重飛行場近くにいた福重小学校1年生(7歳)がアメリカ軍機の機関銃で撃たれて殺された。(昭和20年7月5日が死亡日) 同級生の方が、現在でもバリバリ農作業などをされている。7歳で亡くなられた方も色々な夢や希望を持っておられたはずである。戦争さえなければ同級生みたいに、あと70年間生きてこられたことと思う。
このように戦争は、遠い外国で軍人が戦死・怪我・病気になるだけでなく、日本国内でも広島・長崎原爆、大村大空襲、福重空襲(10名近くが空襲の犠牲者)などで多くの方が亡くなられた。そして、年齢も地域も関係なく犠牲になられている。また、様々なやりたいことや夢も出来なくなったのである。
これからも戦争のない、学びやすい、働きやすい、様々なことができるには、やはり平和を続けていくことが大切である。あと、もう一枚の「不発弾写真」は、野田町で戦後に撮られたものである。詳しく説明する時間は今回ないが、この写真を見ると、いかに戦争が身近だったことが良く分かるものである。
この夏休み期間中、大いに遊んで、たまには宿題もして、元気良く次の学期でも、お会いしたい。(講話終了後、生徒代表はじめ全員で、上野へ丁寧なお礼があった)