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2015年度・福重小学校・郷土史クラブ(2)
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郷土史クラブ(今富城跡切通で撮影)
今富城跡の全景(北側より撮影)
今富城の横堀(空堀)
今富城の切通(きりとおし)

2015年度・福重小学校・郷土史クラブ(2)
日時:2015年12月9日、15時00分〜15時50分 場所:福重小学校〜今富城跡
出席:全体11名(児童は8名、先生方2名、福重郷土史同好会・上野)
説明:上野 

主な内容:今富城跡について
 今回の郷土史クラブの活動は、今富城跡を直接見学することになりました。福重小学校から徒歩で行き、途中、城跡の全景が見える所で丘の大きさ(東西・南北の長さ)や、本丸のあったと思われる高い所を指さしながらながら確認しました。

 あとは、今富城跡での状況を中心に写真や資料も用いて説明をおこない、質疑応答もしました。それらの概要は、下記の通りです。

1)横堀(よこぼり)=右側上から3番目写真参照
 この地面下にある横堀あるいは空堀(からぼり)とも言うが、戦国時代、大村純忠の頃に造られた。2007年8月の発掘調査時に、写真の通り深くて大きな堀が見えていた。現在は、ここは埋め戻されているために見えない。この写真は、その時の横堀の状況が分かりやすいと思われる。東側の発掘されていない所にも横堀は続いている可能性があって、あと何十メートルか横堀はあるかもしれない。

 ここで前回講話時の内容を2項目(堀の名称と役割について)、児童に復習の意味でたずねたところ、2問とも正解だった。つまり、横堀の役割としては簡単に敵が進入できないように丘を横に削って堀を造ったものだ。また、児童から下記の質問があったので上野から答えた。

Q1:横堀は他の城と比べて、どうなのか?
A1:全国にある城全部に横堀がある訳ではない。大きな城に比べたら、ここの堀は大きく(長く)はないかもしれない。ここは空堀で水がなかったが、玖島城みたいに水のある堀も多い。

Q2:(地面北側の)石垣は、城と関係あるのか?
A2:この石垣は新たに出来ているもので、戦国時代の城とは関係がない。

・城跡東側へ移動中に見えた石垣や戦争遺跡

 横堀跡を見た後、東側にある切通を見るために、100m位歩いた。その途中の道横に長い石垣があった。これは、戦国時代のものでないと言われている。あとで畑などを作った時に造られたものだろう。

 (戦国時代の城跡と全く関係ないが)北側に見える古くて厚いコンクリートなどは、今から70年前の戦争時、弾薬庫(だんやくこ)などに使われたものである。この今富城跡には、この周辺だけではなく丘(尾根)全体に戦争遺跡(せんそういせき)が沢山ある。

2)切通(きりとおし)=右側上から4番目写真参照
 切通の見えるところで、周囲の状況含めて説明をした。そして、なぜ丘(尾根)を大きく高く(深く)切っているのかを、児童に質問した。すると、やや数人の話は続いたが、答えは正解となった。つまり、丘(尾根)伝いに敵が簡単に攻めて来れないように、わざと切っているのが、ここでは良く分かる。あと、道の役割も出来たと思われる。

 切通の説明が終わったので、その出口に当たる場所で、皆で集合写真を撮った。(右側上から1番目写真参照)

3)今富城に関係ある侍の墓

 今富所跡の見学終了後、「皆同の侍の墓」に行った。ここの墓には文字もないし、古記録もないので正確に言えない。ただ、この石の大きさからしても、昔から今富城に関係ある侍(さむらい)の墓ではないかと、言われてきた。あと、墓石は東側が表面で、西側が裏面である。
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 以上が、今富城についての説明と質疑応答のあらましです。最後にクリーンアップ福重(下水処理場)の入口で、上野へ対して児童全員から丁寧なお礼がありました。

 次回の郷土史クラブ:2016年1月20日(水)



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