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上記写真は、(奥側の)上野が講話中のもの |
日時:2016年7月7日10時45分〜11時50分
参加数:全体で60名(福重小学校6年生と先生)
場所:福重小学校・6年1組教室
主なテーマ:長崎原爆(ながさき げんばく)と大村空襲(おおむら くうしゅう)の話
講師:上野
準備など:今回の総合学習は、上記にも書いている通り、主に長崎原爆(ながさき げんばく)と大村空襲(おおむら くうしゅう)の話だった。ただし、上野は戦後生まれなので、先の大戦からの「経験者は語る」みたいなことは出来ず、あくまでも書籍類などから作成した映写用スライドや配布資料から原爆、空襲や戦争の悲惨さ、さらには平和の尊さの話をした。
また、今回の総合学習は、8月9日(長崎原爆の日)に、福重小学校で開催される平和集会で6年生が後輩に教えるための資料作成のきっかけ的な意味が目的だった。そのため、6年生へ少しでも材料提供になればと思いつつ準備した。
講話概要:(詳細は省略するが、主な内容は以下の通りだった)
6年生が後輩に教えることは、いいことで、素晴らしいことだと思う。まず、資料やスライドに書いていないことで話したいのは、次の2つのことである。
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長崎原爆のキノコ雲(米軍撮影。出典:ウィキペディ) |
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今も残る福重飛行場跡(幅約2mで一直線の約800mの農道)
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(1)原爆(げんばく)や空襲(くうしゅう)関係の本は色々あるが、そこに書いてある数字(例えば死者数など)は、本によって違う場合もある。そこで、今日は一般によく使われている数字を使いたい。
(2)一番大事なことは、自分で探してみること、そして、戦争遺跡(せんそういせき)などは、見て欲しい。そうすれば、後輩にも分かりやすく話せると思う。
・参考の本として:長崎原爆(ながさき げんばく)の本は、大村市立図書館などに、たくさんある。大村空襲(おおむら くうしゅう)については、次の本もある。「大村市史・第四巻」 、 「放虎原は語る〜大村大空襲と第二十一海軍航空廠」、「おおむらの史記」 、 「楠のある道から」 、 「不帰春」 などである。(上野作成の『福重ホームページ』にものせている)
1)先の大戦の死者数などについて:一般には「310万人」(軍人、市民=民間人含めて)と言われている。今の福重小学校の児童数は約300人なので、その何倍になるだろうか。たいへん多くの方が、亡くなっている。
2)広島原爆<ひろしま げんばく、昭和20(1945)年8月7日>では、約14万人が亡くなられた。
3)長崎原爆<ながさき げんばく、昭和20(1945)年8月9日>では、約7万人が亡くなられた。皆さんも長崎原爆資料館(ながさき げんばく しりょうかん)で見られた通り、死者が多かっただけでなく負傷者もたくさんでた。建物も燃えて市内は焼け野原となり、住む家も、もちろん食べ物も水もなくなった。それは、すさまじく、地獄(じごく)のようになったと言う。
大村でも原爆(げんばく)のピカッとした光が見え、ドーンとの音(おと)がして、キノコ雲も見えたと言う。今富では、爆風(ばくふう)で、ふすま、しょうじが、傾(かたむ)いたこともあったと言う。
また、大村にも長崎から負傷者(ふしょうしゃ)が、久原の病院(びょういん)や松原などにも運ばれた。それを見た人の中には、「髪(かみ)も顔(かお)も体も焼け焦げ(やけこげ)、まるで地獄(じごく)のようだった」と述べられた方もいた。
4)大村空襲(おおむら くうしゅう)、大村大空襲(おおむら だい くうしゅう)
実は、大村空襲の回数は、長崎・佐世保より圧倒的(あっとうてき)に多く、終戦まで連日のようにあった。その理由は、戦争(せんそう)の勝敗(しょうはい)は空軍力(くうぐんりょく)で決まる。そのため、アメリカ軍が、東洋一(とうよういち)大きな飛行機工場(ひこうきこうじょう)の「第21海軍航空廠(こうくうしょう)」と、「大村海軍航空隊(おおむらかいぐんこうくうたい)」を狙って(ねらって)爆撃(ばくげき)したためとおもう。
大村大空襲(おおむら だい くうしゅう)は、昭和19(1944)年10月25日である。この時の死者数(ししゃ すう)は約300人で、その中には 学生(男子、女子)70名近くの死亡者(しぼうしゃ)も含まれている。 県内の人だけでなく他県から来た人も多くいた。皆さんの年齢(ねんれい)と、あまり変わらない学生だった。
5)福重空襲(ふくしげ くうしゅう)
福重も空襲(くうしゅう)が多かったのは、例えば 、1,福重飛行場(ふくしげ ひこうじょう、今富〜皆同)、2,草薙部隊(くさなぎ ぶたい、今の沖田町・郡中学校)、3,今富砲台(いまどみ ほうだい、今富) 、4,皆同砲台(かいどう ほうだい、今の皆同町、福重住民センターの裏山)、 5,今富などの防空壕(ぼうくうごう、工場や倉庫)などの軍事施設(ぐんじしせつ)があった。その中でも飛行機(ひこうき)と関係ある沖田と今富が狙われた(ねらわれた)と思う。
(1)福重の空襲による死者数は、 ・皆同の防空壕(ぼうくうごう)で11名が生き埋め(うめ)、9名死亡(しぼう)、 ・弥勒寺で軍人(ぐんじん)が、1名死亡(しぼう)、・今富の帯取(おびとり)で機銃(きじゅう)に打たれ福重小学生が1名死亡(しぼう)などがあった。
(2)福重地区の火災戸数(かさいこすう)(半焼以上):寿古郷=2戸、皆同郷=6戸、沖田郷=16戸、弥勒寺郷=3戸、野田郷=3戸、今富郷=9戸 立福寺=2戸、福重地区合計=41戸。ただし、もっと多いようだ。(注:「郷」は現在「町」である)
6)写真で見る大村市内の戦争遺跡(せんそう いせき) <注:このページでは、写真掲載は省略>
大村市内にも福重地区内にも、戦争遺跡(せんそう いせき)は、たくさんある。下記は、ほんの一例で、機会あれば見てほしい。
・第21空廠(くうしょう)の本部跡(ほんぶあと):爆弾(ばくだん)で、穴があいている。場所は古賀島町。(大村郵便局近く、消防学校近く)
・元は防空壕、今は慰霊塔(いれいとう)。場所は松並2丁目。
・掩体壕(えんたいごう) 飛行機を格納(かくのう)した。場所は原口町。(下原口公園)
・福重飛行場:今富〜皆同(今も幅2m、長さ約800mの一直線の農道として残っている)
・皆同砲台跡(かいどう ほうだいあと)の弾薬庫跡(だんやくこあと)、銃座跡(じゅうざあと)、場所は皆同町。
・今富砲台跡(いまどみ ほうだいあと)。場所は大神宮(だいじんぐう)の近く。
・民家用(みんかよう)の防空壕(ぼうくうごう)。場所は弥勒寺町の民家(みんか) の裏(うら)。
なお、防空壕(ぼうくうごう)は福重地区内の町内ならば、ほとんど今も残っている。
<スライドにて説明>
「長崎原爆(ながさき げんばく)と大村空襲(おおむら くうしゅう)の話」と言うテーマで、写真や地図などを中心に作成したスライドを大型モニターに写して説明した。(ただし、上記項目と、ほぼ同様の説明をしたので、このページでは内容は省略)
児童よりの感想
児童8名から、主に次のような感想があった。(順不同)
「分かりやすく説明してもらった」、「下級生にも教えたい」、「長崎原爆の話を聞いて平和の尊さが分かった」、「大村で空襲が多かったことを知った」、「平和の大切さが分かった」、「なぜ、アメリカが、ひどい無差別爆撃したのか分かった」、「(福重小の)東校舎が大村初の鉄筋コンクリート校舎と初めて知った」
そして、最後に全員から元気な声で、「ありがとうございました」とのお礼の言葉をもらった。 (概要報告は以上)
注:このページ、後日、補足含めて一部改訂も考えている。
関係ページ:(寿古町、増元さんの)「大村空襲、大村海軍航空隊、第21海軍空廠(講演概要)」 、