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上記写真は、(奥側の)上野が講話中のもの |
日時:2018年7月5日10時55分〜11時45分
参加数:全体で47名(福重小学校6年生と先生)
場所:福重小学校・6年2組教室
主なテーマ:長崎原爆(ながさき げんばく)と
大村空襲(おおむら くうしゅう)の話
講師:上野
はじめに:今回の平和学習(へいわがくしゅう)の内容(ないよう)は、上記にも書いている通り、主に長崎原爆(ながさき げんばく)、大村空襲(おおむら くうしゅう)と、福重の空襲だった。
ただし、上野は戦後生まれ(せんご うまれ)なので、先の大戦(たいせん)からの「経験者は語る(けいけんしゃは かたる)」みたいなことはできず、あくまでも書籍類(しょせきるい)などから作成した映写用(えいしゃよう)スライドや配布資料から原爆、空襲や戦争の悲惨さ(ひさんさ)、さらには平和の尊さ(とうとさ)の話をした。なお、8月9日(長崎原爆の日)に、福重小学校で開催(かいさい)される平和集会(へいわしゅうかい)で、6年生自ら考えて発表されると言うことだった。
講話概要:(詳細は省略するが、主な内容は以下の通りだった)
初めに、6年生が自分で調べたことを発表することは、素晴らしいことだと思う。そのため、図書室などで調べることも良いと思う。今回、一冊の本「焼き場に立つ少年は何処(いずこ)へ」<写真撮影:ジョー・オダネル、吉岡 栄二郎 (著) 、出版社: 長崎新聞社>を寄贈(きそう)する。
1)長崎原爆<ながさき げんばく、昭和20(1945)年8月9日>では、約7万4千人が亡くなられた。皆さんも長崎原爆資料館(ながさき げんばく しりょうかん)で見られた通り、死者が多かっただけでなく負傷者(ふしょうしゃ)もたくさんでた。建物(たてもの)も燃えて(もえて)市内は焼け野原(やけのはら)となり、住む家も、もちろん食べ物も水もなくなった。それは、すさまじく、地獄(じごく)のようになったと言う。
大村でも原爆(げんばく)のピカッとした光が見え、ドーンとの音(おと)がして、キノコ雲(きのこぐも)も見えたと言う。
・「焼き場に立つ少年は何処(いずこ)へ」の本と写真紹介
このアメリカ軍(ぐん)のジョー・オダネルさんが撮影(さつえい)された焼き場に立つ少年の写真は、この本とローマ法王(ほうおう)が紹介(しょうかい)されたので大変有名になった。少年は弟が亡くなったことで悔しくて悲しくて、あまりにも唇(くちびる)を強くかみしめて血もにじんでいたといわれている。
この少年の写真を見た世界(せかい)の人は、原爆(げんばく)の悲惨(ひさん)さを感じ、二度と原爆(げんばく)の犠牲者(ぎせいしゃ)を出したらダメだと思っておられると思う。
2)大村空襲(おおむら くうしゅう)、大村大空襲(おおむら だい くうしゅう)
実は、大村空襲の回数は、長崎・佐世保より圧倒的(あっとうてき)に多く、終戦(しゅうせん)まで連日(れんじつ)のようにあった。その理由(りゆう)は、戦争(せんそう)の勝敗(しょうはい)は、空軍力(くうぐんりょく)で決まる。そのため、アメリカ軍が、大きな飛行機工場(ひこうきこうじょう)の「第21海軍航空廠だい21かいぐん こうくうしょう)」と、「大村海軍航空隊(おおむらかいぐんこうくうたい)」を狙って(ねらって)爆撃(ばくげき)したためとおもう。
大村大空襲(おおむら だい くうしゅう)は、昭和19(1944)年10月25日である。この時の死者数(ししゃ すう)は約300人で、その中には 学生(男子、女子)70名近くの死亡者(しぼうしゃ)も含まれている。 県内の人だけでなく他県から来た人も多くいた。皆さんの年齢(ねんれい)と、あまり変わらない学生だった。
大村空襲で海軍航空隊の飛行場(ひこうじょう)が使えなくなり、その後、福重飛行場(ふくしげ ひこうじょう、今富〜皆同)ができた。この飛行場ができため福重小学校は引っ越しとなり、校舎もなく勉強もできなかった。上級生は、郡川から石運びをさせられた。この飛行場近くの帯取(おびとり)の上空(じょうくう)に来たアメリカ軍機の機銃(きじゅう)で撃(う)たれ福重小学校の児童(9歳)が亡くなった。あと、一か月で終戦という時の悲しいできごとだった。
3)福重空襲(ふくしげ くうしゅう)
福重も空襲(くうしゅう)が多かったのは、例えば 、1,福重飛行場(ふくしげ ひこうじょう、今富〜皆同)、2,草薙部隊(くさなぎ ぶたい、今の沖田町・郡中学校)、3,今富砲台(いまどみ ほうだい、今富町) 、4,皆同砲台(かいどう ほうだい、今の皆同町、福重住民センターの裏山)、 5,今富などの防空壕(ぼうくうごう、工場や倉庫)などの軍事施設(ぐんじしせつ)があった。その中でも飛行機(ひこうき)と関係ある沖田町と今富町が狙われた(ねらわれた)と思う。
(1)福重の空襲による死者数は、 ・皆同の防空壕(ぼうくうごう)で11名が生き埋め(うめ)、9名死亡(しぼう)、 ・弥勒寺で軍人(ぐんじん)が、1名死亡(しぼう)、・今富の帯取(おびとり)で機銃(きじゅう)に打たれ福重小学生が1名死亡(しぼう)などがあった。
(2)福重地区の火災戸数(かさいこすう)(半焼以上)---注:今回、時間の関係上、詳細な説明はしなかったが、配布資料には町別で次の通りを書いていた。
寿古郷=2戸、皆同郷=6戸、沖田郷=16戸、弥勒寺郷=3戸、野田郷=3戸、今富郷=9戸 立福寺=2戸、福重地区合計=41戸。ただし、もっと多いようだ。(注:「郷」は現在「町」である)
4)写真で見る大村市内の戦争遺跡(せんそう いせき) <注:このページでは、写真掲載は省略> スライド写真で、いくつか紹介した。
大村市内にも福重地区内にも、戦争遺跡(せんそう いせき)は、たくさんある。下記は、ほんの一例で、機会あれば見てほしい。
・第21空廠(くうしょう)の本部跡(ほんぶあと):爆弾(ばくだん)で、穴があいている。場所は古賀島町。(大村郵便局近く、消防学校近く)
・元は防空壕、今は慰霊塔(いれいとう)。場所は松並2丁目。
・掩体壕(えんたいごう) 飛行機を格納(かくのう)した。場所は原口町。(下原口公園)
・福重飛行場:今富〜皆同(今も幅2m、長さ約800mの一直線の農道として残っている)
・皆同砲台跡(かいどう ほうだいあと)の弾薬庫跡(だんやくこあと)、銃座跡(じゅうざあと)、場所は皆同町。
・今富砲台跡(いまどみ ほうだいあと)。場所は大神宮(だいじんぐう)の近く。
・民家用(みんかよう)の防空壕(ぼうくうごう)。場所は弥勒寺町の民家(みんか) の裏(うら)。
なお、防空壕(ぼうくうごう)は福重地区内の町内ならば、ほとんど今も残っている。
児童よりの感想
児童(じどう)5名位から、主に次のような感想(かんそう)があった。(順不同)
「今まで知らなかったことを教えてもらった」、「大村が、なぜ毎日のように空襲があったのかの理由が分かった」、「大村でもたくさんの人が死んだことを知った」、「福重でも空襲があったことを始めて知った」、「その本(焼き場に立つ少年・・)は、いつから図書室で見れるのか」(「答え「今日、学校へ寄贈する」)
先生から、「今日聞いた話しを、これからは皆が下級生などに語り継いでいくんですよ」とまとめて下さった。そして、最後に全員から元気な声で、「ありがとうございました」とのお礼の言葉をもらった。 (概要報告は以上)
注:このページ、後日、補足含めて一部改訂も考えている。
関係ページ:(寿古町、増元さんの)「大村空襲、大村海軍航空隊、第21海軍空廠(講演概要)」 、