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福重郷土史同好会
2007年の活動報告(7)

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石立様その1にて取材中
(取材当日の2007年6月7日撮影)
古代の道跡を歩く郡中の生徒さん
(2007年3月28日撮影)左後方:鉢巻山
石立様その2(道標ではないのでは?)
古代の駅跡周辺=草場町の馬込の水神様
郡川の本庄渕(左の土手後方が好武周辺)
大村ケーブルテレビの取材報告
取材日時:2007年6月7日09時30分〜12 時50分
番組名:歴史の散歩道
担当:オクト・パルス株式会社(大村ケーブルテレビ)一瀬さん
説明:主に増元さんが説明

主な取材順路
・東野岳町(郡岳の麓、ゴルフ場入口付近)
・鉢巻山=烽火場(のろしば)があった所
・野岳町の大切間付近と石走川横の古代の道
・野岳町の石立て様その1(道標)
・野岳町の石立て様その2
・草場町の馬込水源(新分駅のあった所)
・皆同町の高縄手
・寿古町の好武城と本庄渕

1)古代の道(肥前国の官道と駅)
 福重(松原地区含む)には、古代に肥前国の官道と駅(新分駅=にきた、にいきた)があった。そのコースは、主に郡岳の麓のゴルフ場周辺から鉢巻山麓周辺、野岳町の石走川沿いの道、草場町の馬込、京辻、皆同町の高縄手、寿古町の好武に至る道である。

 このことの詳細は、別ページ『大村の古代の道と駅』を、ここからご覧下さい。

2)石立様その1
 この(通称)石立様その1は古代の道標である。この道標はほぼ直角になっている道の角にある。地名(字)の由来でもある一説に寄ると古墳ではないかとも言われていて広さ一畳分位の“膝つき石”も前にある。

3)石立様その2
 この(通称)石立様その2は長崎県教育委員会調査で古代の道標=「石立様」として報告書に書いてある。

 しかし、福重郷土史同好会の調査(この周辺の土地所有者である草場町の方への聞き取り結果)によると、「この周辺には最初一本松があっただけだ。この石はどこからか持って来たもの」とのことであった。

 つまり、道標ではないのではと思われる。この原因は、「石立様その1」と「石立様その2」が約100mも離れていないため、県の地元調査の時、草場町以外の方に、この石のことを聞き取りされたため、「石立様その1」と間違われた可能性があると思われる。

4)馬込の水源(新分駅跡)
 延喜式(古代の律令細則みたいなもの)には駅に役人用として新分駅の場合、馬5頭置くことになっていた。長崎県教育委員会の報告書にも「駅は馬込周辺」と推定されている。

 また、この周辺以外には水の確保が難しい所でもある。馬は飼育に大量の水を必要としたため、この草場町の馬込水源周辺が新分駅(にいきた、にきた)が適していたと思われる。

 なお、古代の駅とは関係ないが、福重郷土史同好会の聞き取り調査によると(右写真の)馬込の水神様付近には、昭和30年代初頭まで、石臼数個置かれた水車もあった。つまり、昔も今も水が豊富だったと言うことである。

5)高縄手
 皆同町の高縄手周辺は、元々、海だった。その後、土砂の堆積などにより縄文、弥生時代には田んぼに変わっていった。さらに、畦道などに盛土などして、道を高くしたものと推測される。

 高縄手(たかなわて)とは高くて真っ直ぐな道と言う意味で官道を作るため道を高くしたのではないかと思われる。

6)彼杵郡家と本庄渕
 寿古町の好武周辺は、古代の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)と推定され、さらに荘園役所もあった所と思われる。そのため、郡川の渕=本庄渕の名前もそこから由来していると言われている。

(報告書は、以上)
掲載日:2007年6月17日
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