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大村の城シリーズ 岩松城(いわまつじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  岩松城(いわまつじょう)
(2)別名  針尾河内古城
(3)所在地  大村市岩松町(いわまつまち)
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  平山城 
(6)城主など  不明
(7)現状(遺構)  城址遺構と特定できるものはない
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記に記載されている
(9)土地や管理など  -

(10)補足、感想など
  岩松城は、江戸時代の(大村)郷村記、1980年発行の『日本城郭体系17 長崎・佐賀』(人物往来社)123ページ、『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、2012年版)の27ページに紹介されている。そのいずれもが、城址の場所として、JR岩松駅のやや西側の国道34号線周辺から北東方向へ高速道路(長崎自動車道)の間にある尾根状の台地にあったと書いてある。

  この台地(尾根)の長さは、国道から高速道路近くまでとした場合、約430mある。この間に岩松城があったことは、ほぼ間違いないようだが、どこにあったのか特定できる状況ではない。なぜならば、城郭の遺構が失われているので、どの場所を見ても「ここが城址だ」という明確な根拠がないからである。

 城址の紹介ページ(現場調べや文章作成など)を書く場合、場所の特定は最も重要な事柄の一つと思われる。しかし、上記の内容からしても、その点の正確性を求めるのは、どのような書き方をするにも最初から難しいと思われる。そのようなことから、今回は今までの書籍類などを中心に紹介している点は、ご了承の上、ご覧願いたい。

 今後、何か新たな資料(史料)や地域伝承が確認できれば、このページの補足、場合によっては全面改訂含めて書き直したいとも思っている。


1)岩松城を紹介するにあたって
 岩松城に関して記述してある江戸時代作成の(大村)郷村記紹介は、後の項目で書きます。その前に、『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)27ページに、その概要が書いてありますので、先にこれを引用して、下記「 」内に書いていきます。

写真中央部周辺にある尾根状の丘が岩松城のあった場所と言われている所<AC周辺>(グーグルアースより)

 「 岩松城  この城は、JR岩松駅の東方正面に仰ぐ台地の所にありました。現在は、開墾されミカン畑となり、城らしい遺構はほとんどありません。説によれば文明年間(1469-1486)頃までは、この土地の豪族鈴田道意(どうい)の持ち城であったということです。昔は針尾川内古城とも呼ばれました。

郷村記によると「城周り約110mで、南北40m・東西30m余りであり、 周囲に堀切りがあって、東北側の堀切りが長さ30m、幅が1.81m、深さ1. 81mで、南西の堀切りが長さ25m、深さ1.81m、幅が4.5m余り」と記録され、小さい砦(とりで)であったようです。文化6年(1809)長崎が非常の時の狼煙場( のろしば)にもなりました。 」

右側1番目写真の説明
 右側の画像を見る場合、岩松城がどこにあったか特定せずに、ご覧願えないでしょうか。画像左下側に、まるで道路のように見える太い3本の線がありますが、正確に言いますと最下部の一番短いのが鈴田川です。その上部で次に長く見えるのがJR大村線で青色の四角マークが岩松駅です。その上側で先のJR線路にほぼ並行して走っているのが、国道34号線です。

 画像右側上部に斜めに大きな4車線道路に見えるのが、高速道路(長崎自動車道)です。岩松城があったと思われる尾根状の台地は、このA周辺からC周辺までで、この回りにある田畑や住宅地より数段高くなっている丘陵地帯のどこかと、推測されています。

 Aは、この丘では最高所に近い所で一般には、このA周辺が岩松城址とも言われています。Bは現在、岩松権現と岩松公民館がある所です。その直ぐ下側(南側)に一本の道が斜めに通っていますが、これが旧・長崎街道(=古代の道でもあった)で、現在は市道です。

 C周辺まで岩松城址の可能性としてはあります。この尾根は国道34号線工事や周囲の土地利用の関係で戦国時代当時よりは相当短く細くなったと想像されます。いずれにしても、先に紹介した通り、A周辺からC周辺までの尾根状の台地の、どこかに岩松城があったことは、ほぼ間違いないと思われます。

2)岩松城大村郷村記の記述
 江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)鈴田村の古城蹟之事の項目に、「針尾河内古城」(注:岩松城のこと)として書いてあります。この大村郷村記によりますと、「針尾河内古城」(岩松城)については、次の「 」内通りです。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字に上野の方で変えています。

  あと、原文は縦書きの続き文ですが、横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行もしています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。

 「 一 針尾河内古城  岩松権現より北の方壹町程の處針尾川内と云所にあり、廻リ壹町程、高拾八間程の處、南北貮拾貮問、東西拾六間、今は切畠なり、堀切貮ヶ所あり、

東北の間にある堀切、長サ拾六間、横壹間半、深サ壹間、南西の間にある堀切、長サ拾四間、深サ壹問、横貮問半あり、東の方高尾續、南の方谷、北西の方 谷田あり 此城を岩松の城と號て、文明年中、有馬貴純鈴田亂入の時、鈴田越前入道道意、此城に楯籠り 有馬勢を防くといふ 

現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、岩松城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

  一つ 針尾河内古城(岩松城のこと)  岩松権現より北の方へ109m程の所の針尾川内と言う所にある。周囲は109m程で高さは33m程の所で、南北(の長さは)29mで、今は畑である。堀切は二か所ある。

 東北の間にある堀切の長さは29m、横2.8m、深さは1.8mである。南西の間にある堀切はは、長さ25.2m、深さ1.8m、横2.8mである。東の方は高い尾根続きである。南の方は谷である。北西の方には谷田(階段状の田)がある。この城を岩松城と呼んで、文明年間(1469 〜1486年)に有馬貴純が鈴田(村)に乱入した時に鈴田越前入道道意が、この城にたてこもり、有馬勢を防いだという。 

右側2、3番目写真の説明


  (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


補足



 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2014年12月21日、第2次掲載日:12月22日、第3次掲載日:12月23日第4次掲載日:12月26日第5次掲載日:12月 日

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