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大村の城シリーズ 久原城(くばらじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  久原城(くばらじょう)
(2)別名  -
(3)所在地  大村市玖島一丁目
(4)築城年代  江戸時代、大村藩による創作(偽装)の歴史と思われる
(5)形式・特徴  同上 
(6)城主など  同上
(7)現状(遺構)  城址遺構と特定できるものはない
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記にあるが、内容は創作(偽装)の歴史と思われる
(9)土地や管理など  私有地

(10)補足、感想など
  久原城は、江戸時代の(大村)郷村記に記述されているが、その内容は極簡単に言えば「ほぼ全部が創作(偽装)されたものばかり」である。近代から現代までの書籍類にも、例えば『大村市の文化財』、『大村の歴史』(両誌とも大村市教育委員会発行)を始め、他の書籍でも沢山紹介されている。しかし、それらも先の(大村)郷村記内容を引用・参照されて書かれたものばかりで、今では大部分が間違い記述とも言われている。

 なお、先の創作(偽装)のことについては、『日本城郭大系 17』(新人物往来社 1980年11月発行)の128ページにも、初代の大村氏のことや、この城に居城したことなどについて、「信憑性に乏しい単なる後世の創作説話であると思われる」とか「直純の久原入場説もまた信じえない」など、同様のことが書いてある。

 そのようなことから、この久原城をたとえ「江戸時代の古記録に書いてあるから」とかの大義名分を用いながら大村市教育委員会発行の書籍類や大村市ホームページなどに紹介すること自体、本来はすべきでないとも思われる。そのようなこともあり、私は、今回この「大村の城シリーズ」に掲載するか、どうかも迷った。

 しかし、「久原城については明確に創作(偽装)の歴史で、大部分が間違い記述である」みたいな書き方が少ないので、あえて、そのことを強調する目的で掲載することとした。このようなことから、可能性は少ないが、今後もしも、何かの史料(資料)類が発見されれば、このページの補足、場合によっては改訂したいとも思っている。


1)久原城を紹介するにあたって
 通常、「大村の城シリーズ」(目次ページは、ここからご覧下さい)の他の項目では、例えば、江戸時代の大村藩によって編纂された(大村)郷村記、さらには大村市教育委員会発行による『大村市の文化財』や『大村の歴史』などの書籍類を引用、参照して、私は書いています。

 しかし、この久原城に関しては、その全ての内容が大村藩によって創作(偽装)されたことが分かっています。さらに言えば、全く年代も合わないどころか、歴史記述で大事な事跡も、裏付けの史料もありません。特に、「正歴5年(994年、平安時代)・・・大村氏・・・」などの内容は、全く根拠のないものです。

 あと、現在の大村市内には、約30箇所の城・砦・館跡があると言われています。その中には、先の(大村)郷村記に記述されていても、一部疑問符の付く場所や疑わしい書き方などが、いくつかあり、それらを紹介する場合、注意も必要です。しかし、この久原城は、最初から最後まで創作(偽装)されたものばかりです。そのような状況から、今回、(大村)郷村記、『大村市の文化財』や『大村の歴史』などの書籍類から引用・参照して、このページに書きますと、その文章量以上の全面反論文を書かざるを得ないことになります。

中央部の柱が久原城の案内門柱。ただし、「由緒」関係文章は江戸時代の大村藩による創作(偽装)内容が引用して書いてある。

  このようなことは、本来の城・砦・館跡の紹介ページとしてはありえないことです。そのようなこともあって、次の写真紹介文以上のことは、今回このページには、書かないことにします。ただし、例えば江戸時代などに、武士が住んでいたことなどを否定している訳ではないので、その点は申し添えておきます。

写真説明について
 右側写真の中央部に白色もしくは銀色に見える高さ約2m、横幅約15cmほどの柱が立っています。これが、久原城の案内門柱です。ご参考までに、この柱の直ぐ右下側が市道で、手前(南東側)方向が長崎県立大村高等学校、逆に写真右奥側(北西側)方向が大村市立大村小学校となります。その距離は、両校とも柱から200mほどです。

 この案内門柱の3面には、文字があります。写真に写っています黒太文字の久原城跡」(南東面)、「建設 昭和五十五年二月 大村市教育委員会」(南面)の文字は、鮮明に見えています。

 しかし、北西面の「由緒」書き部分は、見えにくい状況です。それでも目を凝らして読んでみますと、このページに何回も書いています創作(偽装)された歴史内容のようです。ここからは、私の推測ですが、この柱が建設当初(1970年=昭和55年2月)は、どの面も見えていたはずです。しかし、古くなったので後年、現在見えている黒太文字部分は色を塗り直したと思われます。

 ただし、「由緒」書きの面は、重複した書き方になりますが、創作(偽装)された歴史内容だったため色を塗り直す作業がされず、当初のままだったので、現在は見えにくくなっているのだろうと想像しています。

補足



(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2015年6月8日、第2次掲載日:6月16日、第3次掲載日:6月17日第4次掲載日: 月 日第5次掲載日: 月 日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

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