1)白鳥城を紹介するにあたって
白鳥城に関して記述してある江戸時代作成の(大村)郷村記紹介は、後の項目で書きます。その前に、『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)26ページに、その概要が書いてありますので、先にこれを引用して、下記「 」内に書いていきます。
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(写真1) 中央部「白鳥前」地名の下側で高速道路の一部下側から右側(東側)周辺が白鳥城跡。斜め状に見える住宅地は白鳥団地(写真はグーグルアースより)
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「 白鳥城 この城は、大村市立鈴田小学校の北西にある断崖絶壁(だんがいぜっぺき)の丘の所にありました。現在は高速道路高架橋の一部が上を通っていて、残りの高い部分は住宅団地にな っており、台地の背後は山続きになっています。
郷村記の中に「周囲7町程(約764m)、高さ30間程(約55m)、上の広さは1反1畝程(約1,091u)、背後に横3間(約5.5m)・深さ2間程(約3.6m)の堀切り3カ所がある」とあります。伝説によれば、戦国時代の前期まで、 この土地に栄えた鈴田氏の砦(とりで)の一つだろうといわれています。 」
右側1番目写真の説明
(写真1)の中央部下側付近で斜めに走る4車線道路は、長崎自動車道(高速道路)、右端側に白色で少しだけ見えているのは大村市立鈴田小学校の運動場、左下側の「惣原田」地名の上側を左右に、あるいは高速道路付近から東側へ斜めに見えるのが鈴田川です。
鈴田川は東側(右側)が上流部ですから西側(左側)へ流れています。また、この写真では分かりづらいですが、中央部の丘陵(尾根)の上側(北側)には、鈴田川の支流の一つである白鳥川が流れています。つまり、この台地は、鈴田川と白鳥川の二つの川に挟まれた地形です。
白鳥城があったのは、(写真1)中央部の文字「白鳥前」の地名から数十メートル南側(下側)で高速道路の高架下側及び東側(右側)周辺だったと言われています。現在は、白鳥城があった付近から北東部へ斜め状にある住宅地(目測で長さ約250m、幅が40m〜80m)は、「白鳥団地」と呼ばれています。
白鳥城は、この写真からも分かる通り、南側の鈴田川と西側の白鳥川に挟まれて、さらには城(台地)の東西は断崖絶壁の上にあったため、天然の要害で強固な城だったことが推測できます。
2)白鳥城と大村郷村記の記述
江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)鈴田村の古城蹟之事の項目に、「古城」(注:白鳥城のこと)として書いてあります。この大村郷村記によりますと、「古城」(白鳥城)については、次の「 」内通りです。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字に上野の方で変えています。
あと、原文は縦書きの続き文ですが、横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行もしています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。
「 一 古城 白鳥と云所鈴田川より左北の方壹町程上の方にあり、廻リ七町程、高三拾間程、上の廣壹段壹畝程、東の方高尾續、此處に横三間、深サ貮間程の堀切の跡三ヶ所あり、今は林となるなり 」
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(写真2) 中央部やや左側(南側)の高速道路(長崎自動車道)の橋脚下側から右側(北側)の民家周辺にかけて白鳥城はあったと言う。(手前の川は鈴田川)
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(写真3) 中央部やや右側(南側)の高速道路(長崎自動車道)の橋脚下側から左側(北側)の民家周辺にかけて白鳥城はあったと言う。(手前の川は白鳥川) |
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。
また、(大村)郷村記は、「古城」(白鳥城)の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 一つ 古城(白鳥城) 字(あざ)の白鳥と言う所で鈴田川より左側の北方へ109mほど上側にある。周囲は約764mほどで高さ約55mほど、上の広さは約1,091uほど、東側の方は高い尾根続きである。この場所に横(の長さ)約5.5mm、深さ約3.6m mほどの堀切の跡が三か所ある。(城址の)今(現在状況)は林である。>
右側2、3番目写真の説明
(写真2)は、写真下部に鈴田川が写っていますので、直ぐにお分かりになられると思いますが、この川の東側にある市道から撮ったものです。写真左側の高い橋脚は、高速道路(長崎自動車道)です。白鳥城は、この橋脚の下側から写真右側(北側)の民家周辺にあったと言われています。
ご参考までに、この高速道路の橋脚から直ぐ左側(南側)には、現在は市道ですが、旧・長崎街道(古代の道でもあった)も通っています。
白鳥城があった付近から北東部へ斜め状に(目測で長さ約250m、幅が40m〜80m)、「白鳥団地」と呼ばれている住宅地が続いています。(このページ(写真1)も参照願います) この住宅地は、尾根を平らにしてできたものと思われます。あと、写真中央部に竹藪(たけやぶ)で、断崖が分かりづらいですが、急な形状をしています。
次に(写真3)は、、上記の2番目写真の反対側から撮ったものです。説明が重複しますが、この写真の場合、右側(南側)の橋脚下から左側(北東側)の民家周辺に白鳥城はあったと言われています。
写真手前側にある田んぼの土手あるいは堤防になっている斜め状の所から奥側が、白鳥川です。また、写真中央部に雑木や竹藪(たけやぶ)があるため断崖が分かりづらいですが、急な地形をしています。
このように、(写真2)や、(写真3)からも分かる通り、白鳥城は東にある鈴田川と西にある白鳥川の二つの川、さらには東西にある断崖絶壁の尾根の上にあったことが良く分かります。(このページ(写真1)も参照願います) 以上のような地形からして戦国時代、攻めてくる敵側にとって、白鳥城は難攻不落の城だったと推測されます。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)