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大村の偉人・有名人・活躍人シリーズ  深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)  


 原口 富一(はらぐち とみいち) 
原口 富一   旧・海軍大村航空隊敷地の返還と開墾の功労者(立役者)
          
  この人の名前から「冨の原」(地名)町名となった

 
注:原口富一 氏のご子孫ご家族から今春、上野へ大村海軍航空隊敷地跡の変換交渉前後の詳細内容のお話と文書、さらには写真多数も送って頂いた。この内容をもとに、いずれ冊子版作成・発行を検討中である。ただし、この冊子発行には予算が必要なので、相当な年月がかかると思っている。そのため、以前から掲載中の下記内容にプラスして先の詳細内容の内、その概要のみを掲載していこうと考えている。



 (写真1) タンフォード大学卒業時の
原口富一 氏の記念写真
(写真2)   若かりし頃の原口富一 氏
 
(写真3)  終戦後、農業の原口富一 氏 
戦後の混乱期、大変な功労により慕われ現在の地名「富の原」の名前までなった方
 まず、大村市内の富の原(地域)に「富の原1丁目、2丁目」あるいは、この地域に「富の原小学校」などがあることは、市民ならどなたでもご存知のことでしょう。

 しかし、この地域は最初から「富の原」ではありませんでした。戦前(戦後の一時期も含め)旧・大村海軍航空隊・滑走路(草地)が開設・拡張されるまでは、旧・今津郷、字(あざ)大川田、黒丸郷などがあった地域に該当します。そして、先の滑走路の開設や拡張時、農家にとって収入の源である農地や居住する家屋や敷地まで国から事実上、強制接収と立ち退きになったのでした。

 そして、終戦になり、米軍(占領軍)が接収していた)旧・大村海軍航空隊跡の敷地の返還を求めて交渉されたのが、「旧大村飛行場跡開拓団 大村開拓農業協同組合」(組合長・原口富一)でした。その労苦と功績を讃えるために、原口富一 氏の「」の一文字をとって、富の原の名称になったのでした。ここからは、上野の推測ながら、大村の近代史で地名(町名)までなった方は、いないと思われます。それだけ、大きな功績があった方です。


 (さらに原稿は続きますので、しばらく、お待ちください)

経歴
注:極簡単な事柄のみを一次分として記す。なお、一部( )内や太文字などは分かりやすくするため上野が補足した>

・1884年(明治17年)9月1日-----長崎県東彼杵群竹松村原口郷に生まれる(注:この原口郷は現在の大村市原口町である)
1890年(明治23年)4月-----竹松尋常小学校(4年制)入学、病気のため1年間卒業が遅れた(注:この学校は現在の竹松小学校である)
1895年(明治28年)4月-----大村高等小学校入学
・1903年(明治36年)-----大村中学校(現・大村高等学校)を卒業

・1904年(明治37年)5月-----渡米 長崎港よりサンフランシスコへ 
・1904年(明治37年)8月-----リンカーングラマースクールに入学 1年で高校に入学できる資格取得
・1905年(明治38年)8月-----オークランド高校入学  所謂スクールボーイとして3年すごし、2年間は夜薬店で働く
・1906年(明治39年)4月18日-----<サンフランシスコ大地震で被災>
・1909年(明治42年)-----オークランド高校を卒業
・1909年(明治42年)9月-----スタンフォード大学に入学 電気工学
・1913年(大正2年)-----スタンフォード大学卒業
・1913年(大正2年)8月-----ゼネラル電気会社に入社
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 注:以降の経歴は、準備中。お待ちください)


・原口富一氏は何故、大村海軍航空隊跡の変換交渉に立ち上がったのか


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



・富の原開墾記念碑の語ること


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・原口富一氏の経歴の補足


 (上記に簡単な経歴は書いている。さらに補足文章の掲載も検討中である。お待ちください)


・参考資料:「参考書籍・資料一覧表ページ」 

・関係ページ: 

(掲載日:2020年6月10日、第二次掲載日:2024年4月24日、第三次掲載日: 月 日、第四次掲載日: 月 日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)


参考文献・書籍類一覧表 「大村の歴史」もくじ


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