地蔵盆、地蔵まつり
最初に名称や行事内容について、お断りを書いていきます。あくまでも私自身の経験からですが、大村市内では「地蔵盆」という言い方さえ、実はあまり聞いたことがありません。「地蔵まつり」の方は、後の「(大村の)地蔵まつり」項目に詳細に書いていますので参照願います。ただし、行事の大きさや名称の違いがあっても、地蔵それ自体を祭る風習は、市内各地で続いてきたことは確かです。
例えば夏祭り(夏越し祭り)とか、秋祭りみたいな大きな、派手な行事ではなく、どちらかと言いますと、ひっそり、静かにお参りする習わしが多かったようです。私の子供の頃からも、それは同じで(夏の地蔵盆の時期に)「・・・・地蔵の前で餅まきがあって、その後に相撲をとった」とか、「お地蔵さんの所で・・・・踊りを見た」という記憶は、上野自身はありません。
先の祭り方の補足ですが、市内で地蔵のある地域では、開催月は不明ながらも、たまに(大村弁で)「今日は地蔵様を拝んできたバイ」とか、「今日は、お地蔵さんの日バイ」などと聞いたことはありました。ただし、その祭り名称や行事名などもなく、さらに特別大きな例祭や行事みたいなものでなかったと思います。どちらかと言いますと、ひっそり静かに各地域で家族や個人単位で祭られてきたのではないでしょうか。
上記の経過からして、「地蔵盆」の名称で書き始めるのは、やや上野自身も違和感を持ってはいるのですが、歳時記の紹介は、何か名称がないと書きにくいので、次の<>内=国語辞典・大辞林を参照して「地蔵盆」の名称で、このページでは書いていますので、あらかじめご了承願います。
<地蔵盆=地蔵の法会。近畿地方で盛んな子供中心の行事で,地蔵に供物・灯明を供え,仏名を唱えたりする。京都では8月23,24の両日行われる。もと,陰暦7月24日。地蔵会。地蔵祭り>
あと、何故このような夏の時期におこなわれるか、分かりやすく言いますと、「それは盆の祭の終りの日であった」ためのようです。つまり、地蔵と盆の時期から”地蔵盆”と呼ばれるようになったと言うことです。
次からは、私の参考までの意見です。冒頭に述べた通り、大村市内で地蔵それ自体を祭る風習は、昔から続いていた経過はありました。しかし、各地域で何故大きな行事みたいにならなかったかという要因ですが、それは建立者による違い(地域全体か個人単位かなど)も大きいかったのではないでしょうか。
例えば寿古町にある「竈権現の地蔵(かまどごんげんのじぞう)」は、江戸時代の周辺地域(現在の寿古町や皆同町)の建立です。しかし、他の地蔵は、圧倒的に多くの場合、個人建立形式のようです。そのようなこともあり、どちらかと言いますと、ひっそり静かに家族や個人で祀られてきたのではないかとも思われます。
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(大村の)地蔵まつり、「コレモおおむら」近くに特別に置かれた地蔵(通常は長安寺にある) |
(大村の)地蔵まつり
まず、この項目で書いています (大村の)地蔵まつりの正確な名称は、地蔵まつりです。また、この紹介文章の引用、参照資料は、「地蔵まつり奉賛会設立趣意書」(2013年8月4日、地蔵まつり 発起人・川添勝正氏の作成)からです。
同氏から掲載許可を頂きましたので、この祭りの由緒、これまでの経過などを先に、ご紹介します。なお、下記の引用内容は、見出しや改行など、趣旨が変わらない範囲内で分かりやすくするため、上野の方で( )内や句読点などの補足や改訂もしていますので、あらかじめ、ご了承願います。(言葉の解釈は、国語辞典の大辞泉から)
<由緒や経過などについて>
(この地蔵まつりの)起源は定かでないが、明治時代まで遡ることができる。 最初は干ばつの夏に「雨乞いまつり」として、長安寺のお地蔵さまを里(萱瀬町)に勧請し開帳されたと思料(注:いろいろと考えること)する。 (長安寺の火災の時、自分で池に転がり込み火難を避けた言い伝えがある。 「長安寺の白龍の大鉢」の由来から『雨乞い』になった説もある)
その後、大村に子供の疫病(赤痢、疫痢、)がはやったことから(お地蔵さまは子供の守り神)、疫病退散の祈願に代わってきた。 古くは、現在の下駅通りシンフォーニーの所(旧町名・萱瀬町)におまつりされていた、戦後、現在のロイヤル靴店(旧楽天通食堂)に移動 している。
地蔵まつりの隆盛は昭和30年代後半である。(当時)町内の空き地に舞台をかけ、劇、歌、踊り、紙芝居などを上演し、屋台も出る等、人出も多 く賑やかな1日であった。その頃は、三城地区に家が少なかったので、地蔵まつりのシンボル的鐘の音は杭出津地区にまで響いていたそうである。
現代社会の様々な出来事:(地震、水害、原発事故)は人智だけでは片 づける事:が出来なくなってきた、そこで我々も原点に返り、ご先祖様や、 先輩の足跡をもう一度たどり、先達の神仏にかける思い、地域社会を守 る思い、地域振興にかける熱意や伝統行事を受け継ぎ、住民生活の安寧(注:無事でやすらかなこと)と、地域の繁盛、賑わい復活の願いを込めて、『地蔵まつり』を開催する。
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(大村の)地蔵まつり(赤色テントの下に地蔵が置かれていた)<場所は「コレモおおむら」近く> |
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お地蔵さま十徳(上記写真の右側の拡大) |
<(大村の)地蔵まつりの状況>
この地蔵まつりの主催者は下駅通り商店会、共催は白龍山長安寺で、その他参加希望者で開催されています。上記項目でも説明してます通り、この地蔵まつり自体は、この地域付近で明治時代頃から開催されていた行事ながら、一旦、途絶えていました。それを、2013年8月26日に復活され、今年(2014年)も継続されています。
次からの内容は、私が2014年8月23日に大村駅前通りにある「コレモおおむら」周辺で開催されていた(大村の)地蔵まつりの概要紹介をします。ただし、私は全部の時間帯にいませんでしたので、一部の紹介のみですので、あらかじめご了承願います。
・(上記左側及び右側2番目写真の通り)地蔵が置かれていた。
・地蔵前では線香が炊かれや供物などがあげられていた。
・地蔵の奥では「地蔵くじ抽選会」などがおこなわれていた。
・「コレモおおむら」のイベント広場では、主催者挨拶、長安寺ご住職の挨拶、各行事(cherry★cherryのライブ、大正琴やオカリナの演奏など)がおこなわれていた。
上記の箇条書きは、分かりやすい内容ばかりですので特に補足の説明は、不要と思われます。私の見た目で、この日、「コレモおおむら」前を通りかかった方々が、地蔵にお参りし、地蔵くじをされたり、自分の好きな時間帯で広場での行事や演奏見学などをされていたようでした。
あと、右側3番目写真は、その上の写真右側にある「お地蔵さま十徳」部分を拡大したものです。ここには、「一、女人泰産(安産であること)」 から 「十、証大菩提(極楽浄土へ行ける)」まで、お地蔵様の福徳が書いてありました。
なお、上記左側写真に写っている地蔵は、通常は長安寺に安置されているようです。