(史跡説明板)三社大権現 (さんしゃ だいごんげん)
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名称:三社大権現 |
様式:説明板 |
場所:大村市武留路町 |
設置者:松原地区活性化協議会 |
設置年:2021年3月21日(令和3年3月31日) |
GPS実測値:32度59分16.61秒 129度57分26.96秒 |
全体の大きさ:高さ150cm、横幅70cm |
国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°59'16.61"N,129°57'26.96"E
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(写真1) 三社大権現の本殿、中央右側が史跡説明板 |
(写真2) 三社大権現の史跡説明板 |
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注:念のため、下記項目の中に、三社大権現のについて、別の創建説や仏岩三社大明神との関係などの異説がある。しかし、このページは史跡説明板の紹介が趣旨なので、その記述は書かないことにする。 |
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(写真3) 三社大権現の鳥居(手前側が道路、階段上の奥が本殿)
<鳥居の右方向に武留路の馬頭観音がある> |
史跡説明板写真周辺の説明
武留路町の中心地を武留路公民館や消防団12分団分駐所辺りとするならば、ここから北北東で約130mの所に三社大権現があり、この町の中心部周辺に鎮座しています。ここへ行くには。武留路公民館前の市道から歩いて境内に登るか、遠回りになりますが車でも(写真3の)鳥居前の道へ到着できます。(ただし、どこも狭い道です)
この道路の鳥居前(階段に向って右側=東側)から直ぐの位置に武留路の馬頭観音があります。この馬頭観音は、土台石2個の上にあるため高さがあり、また屋根があるため保存状態の良いです。これ以上の詳細な事柄は、先のリンク先から参照願います。
(写真3参照)先の鳥居の柱には、江戸時代(「享保三 戊戌 十月」(1718年10月)などが彫られた碑文があります。三社大権現の本殿周辺や境内には、詳細なことは調べていませんが、石仏、石塔、石灯籠などがあります。
また、「新社殿落慶記念碑 昭和六十三十二月吉日」(1988年12月吉日)との碑文が、正面(表面)彫られた記念碑もあります。この記念碑を参照すれば(2021年現在で)、ここの本殿は築33年ですが、(写真1)の通り、大きさも含めて、なかなか立派な社殿です。
史跡説明板の内容
このページ(写真1)の右側と、(写真2)の中央部に写っています三社大権現の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。先の説明板を拡大したのが、右側の(写真4)です。
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(写真4) 武留路町、三社大権現の史跡説明板(本体部) |
なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 三社大権現
三社大権現は、武留路の鎮守の神様です。「郷村記」に「不動様と石三つを祭る」と書かれています。
武留路は中世には仏教が栄え古い寺や神社がありましたが、戦国時代にキリシタンにより壊されたと思われます。明暦三年(一六五七)の郡崩れの後、民心の異常な動揺に対処するため、時の藩主大村純長は寺社を復興しました。
武留路では、万治二年(一六五九)に三社大権現、その四年後の寛文三年(一六六三)に薬師堂が建てられました。沖灘権現の建立年代もほぼ同じ時期と思われます。
再建当時、三つの神社は別々の所にあり、三社大権現はもっと山手でしたが、鳥居の年号から享保三年(一七一八)に現在地に移転されたと考えられます。薬師堂は前田氏の所に、沖灘権現は沖灘の地に再建されました。
三社大権現の三つの石は、昔の権現宮のものといわれています。
明治以降、三つの神社は三社大権現の地に一緒に祭られ、現在の社は昭和六十三年(一九八八)十二月に改築されたものです。
令和三年三月三十一日
松原宿活性化協議会 >
注:既に掲載中の各史跡説明板(もくじ)で、その内容中に例えば江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの記述や、近代、現代でも難しい用語があれば、その解説も含めて書いている場合もあります。
しかし、今回は(写真4)や上記の横書き内容でも、お分かりの通り、大変分かりやすい文章なので、補注その他は今回書いていません。
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:
(初回掲載日:2021年5月1日、第2次掲載日:5月5日、第3次掲載日:5月8日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)
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