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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 福重の防空壕内海軍指揮所跡

(史跡説明板)福重の防空壕内海軍指揮所跡
 名称:福重の防空壕内海軍指揮所跡  様式:説明板
 場所:今富町弥勒寺町の境となる市道脇)   設置者:今富町、福重地区活性化委員会
 設置年:2024年3月1日(令和6年3月1日)  GPS実測値:32度57分36.06秒 129度57分11.09秒
 全体の大きさ:高さ150cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ地図は、こちらから。
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°57'36.06"N,129°57'11.09"E
福重の防空壕内海軍指揮所跡の史跡説明版(右側写真中央部が史跡説明板)(左側写真の所はゴミステーション)<合成写真>

<用語解説>
・防空壕とは、「空襲のときに避難するため、地を掘ってつくった穴や構築物。(デジタル大辞泉より)
・指揮とは、「全体がまとまりをもって動くよう、人の上に立って指図をすること。」(デジタル大辞泉より)

史跡説明板写真周辺の説明
 (下記右側の画像Aの丸い紫色の円と文字を参照) この福重の防空壕内にある海軍指揮所跡の場所は、大村市今富町、大神宮の北部側にある山林の下部にある。また、今富町と弥勒寺町の町境ともなっている市道脇でもある。この市道を挟んで反対側には、福重梨の梨園や民家などもある。

(画像A) 紫色の円内に「福重壕内指揮所」の文字がある
この円内には今回の防空壕2カ所以外にも福重砲台(通称「今富砲台」)、他の防空壕、さらに三角兵舎なども含まれているようだ。
 (最上記の横長写真参照) そして、防空壕は、約10mの間隔で二か所ある。そのため、便宜上(べんぎじょう)、向かって左から「防空壕その1」と「防空壕その2」と呼称している。

 なお、現在、「防空壕その1」の入口前は、弥勒寺町のゴミステーションとして金網の箱が設置されている。「防空壕その2」の入口前が、今回紹介している史跡説明板が設置されている。

 あと、今は両方の防空壕とも穴がふさがれているため、内部を確認できない。ただし、地元伝承では、「当時の防空壕入口周辺は直径(高さ、横幅)は4m弱、奥になれば狭くなっていた。また、奥行きは数十mで、最奥で繋がっていて大神宮の一の鳥居周辺(東側方向)の山の斜面に(空気取り入れ口の)穴が空いていた」という。

史跡説明板の内容
 このページ(最上記の写真)の右側に写っている福重の防空壕内の海軍指揮所跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてある。先の説明板を拡大したのが、右側の(画像 B)である。

 なお、(画像B)をご覧の通り、原文は縦書きだが、ホームページ用に横書きに直している。また、原文は、そのまま生かしたいが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もある。
(画像B) 福重の防空壕内海軍指揮所跡の史跡説明版(PDFより加工)
 < 福重の防空壕内海軍指揮所跡
 このニ本の防空壕は地元伝承や「放虎原は語る」(大村市発行)の付録地図によれば「福重壕内指揮所」の一つ(下記の地図参照)だった。

 この周辺には主な軍事施設として福重砲台(今富町)、皆同砲台(皆同町)、第三五二海軍航空隊(沖田町など)、大村海軍航空隊(竹松地区)などがあった。空襲を避けて防空壕を海軍が指揮所として日常の軍務や作戦会議などをしたと思われる。

 あと、地元伝承によると「二本の防空壕入口は直径四mm弱で、奥行きの長さは数十mあり、中で繋がり一本になっている。そして大神宮の一の鳥居近くの斜面に穴が開いていた」と言う。

 また、この周辺には兵隊が寝泊りした三角兵舎も何ヶ所かあり、その建物が米軍撮影の航空写真に写っている。
 二〇ニ四年三月一日
 今富町内会・福重地区活性化委員会 >


補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



・詳細な関係ページ:「大村の空襲・戦争遺跡シリーズ」の『福重の防空壕内海軍指揮所跡』 

(初回掲載日:2024年4月26日、第2次掲載日:5月19日、第3次掲載日: 月 日、第4次掲載日: 月 日) 


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