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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 日置峠(ひおき の とうげ)

(史跡説明板)日置の峠(ひおき の とうげ)
 名称:日置の峠  様式:説明板
 場所:大村市 岩松町(いわまつまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2017年3月31日(平成29年3月31日)  GPS実測値:32度53分26.40秒 129度59分06.61秒
 全体の大きさ:高さ150cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°53'26.40"N,129°59'06.61"E
(写真1) <グーグルアースの画像より> A:日置の峠の史跡説明板 (黄色点線:大まかな旧・長崎街道の日置の峠部分)
(写真2) 中央部の白板が日置の峠の史跡説明板、写真奥側が水が流れていた所。道路右上方向が日置峠 、手前側は市道
(写真3) 中央部が日置の峠(旧・長崎街道)、上部のさらに奥側に「松の並木」があったと言う。(左端側は墓地)
(写真4) 中央部が現・市道で旧・長崎街道である。日置の峠へ登る道は、写真の奥側より先の方向。

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、(写真1)を参照願います。この写真中央部の左側のAに、日置の峠の史跡説明板があります。その場所は、岩松公園から東側へ直線で100m弱、その公園と横並びにある幸田水産からならば東側へ約40mの所です。 (写真2)参照。 それらの前(南側)を通る市道から峠道を登る直前の約2m位置(=市道近く)に、この史跡説明板は立っていて大変分かりやすいです。

 念のために、(写真1)の黄色点線が、「旧・長崎街道、日置の峠」部分です。(黄色点線史跡説明板の図を参考にして大まかには描いてますので、ご参考程度に願います) 当然、その両先端からも東・西側方向へ、長崎街道は伸びています。その旧街道の南側を現在、市道が並行する形で通っている関係上、この道路が「旧・長崎街道」と勘違いしておられる方もいらっしゃいました。

 しかし、本当は後で紹介しています(写真5)の史跡説明板の図や、上記(写真1)の黄色点線通り、現在は、ほぼ山林内の小道が、「旧・長崎街道、日置の峠」部分です。なお、黄色点線部分には崖崩れした道も描いていますが、当然、その部分は長崎街道も失われています。 注:この「旧・長崎街道、日置の峠」部分を正確に知りたい方は、(写真5)の史跡説明板の図を参照願います。

日置峠
 今回の史跡説明板文章内容を参考・引用にしますと、(写真2)の奥側は、「清水が流れ、かたわらに石像の地蔵がありました」と解説されている場所です。現在では、そのような状況ではないようです。

 この場所を起点にして東側へ行く場合の日置の峠は、登り道になります。直ぐに進行方向左側(北側)に墓地があります。坂はずっと続きますが、やや平坦になり、ここからは元「松の並木があった」道と思われます。さらに進みますと、長崎街道が途切れたようになります。この周辺が、史跡説明板にある「崖崩れ」の場所と思われます。 

 次に峠の反対側、つまり東側から長崎街道を見たのが、(写真4)です。この写真の右側に「長崎街道」と書かれた看板2基が立っています。その左下側の道路が現在の市道ですが、旧・長崎街道でもあります。この周辺から数十メートル先に行った地点から右側(北北西側方向)へ登る小道が、江戸時代は日置峠へ向かう長崎街道でした。

 ただし、登って西側方向の先で、(後世に)崖崩れがあって、現在、この街道は途中で途切れた状態になっています。あと、江戸時代の歴史事項ではありませんが、この(写真4)の竹や雑木林の右上側(北側方向)には、戦前、(海軍)第21航空廠の疎開工場用トンネル=隧道(ずいどう)が四か所あります。ここから私の推測ながら、この隧道には、大村大空襲の後、航空機製造のための部品の倉庫とか工作機械の一部などが置かれたのではないでしょうか。

(写真5) 日置の峠史跡説明板の左下部にある

(写真6) 日置峠史跡説明板(本体のみ)

史跡説明板の内容
 右側の(写真5)は、日置の峠史跡説明板左下部にある日置の峠周辺のです。このに数項目の説明文がありますが、そのことについては、上記項目に既に紹介していますので、参照願います。併せて、最上部(写真1)の黄色点線や文字も、このと比較して頂けないでしょうか。

 次に、(写真2)の中央部に白く写っています日置の峠史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右下側の(写真6)です。

 なお、(写真6)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

   日置(ひおき)の峠
 ここから旧長崎街道は坂を上がります。登りロ脇の岩壁には清水が流れ、かたわらに石橡の地蔵がありました。そこで旅人 は喉
(のど)を潤して、旅の安全を願っていたのでしょう。

 そして墓の下方を通って行くと、右手は高岸になっていて、松の並木がありました。この南向きで日当たりの良い松並木の道を、「日置の峠」と呼んでいたようです。その先、街道は白鳥川の六十メートル程手前で下って、川の石橋へ続いていました。

  なお、鈴田地区内の鈴田川・白鳥川・稲川内川・針尾川・古松川には、天保九年(一八三八)、一斉に石橋が架けられたそうです。それまでは飛び石で渡っていました。

 日置の峠は、昭和二十年頃掘られた隧道
(ずいどう) (第二十一海軍航空廠疎開工場用のトンネル) で寸断されたため、現在は通れませんが、赤道(あかみち)として一部残っています。

 平成二十九年三月三十一日  住みよい町づくリ「チーム鈴田」 >



補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


・詳細な関係ページ:

(初回掲載日:2018年4月12日、第2次掲載日:4月13日、第3次掲載日:4月17日、第4次掲載日:4月18日、第5次掲載日: 月 日) 


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