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(写真5) 日置の峠の史跡説明板の左下部にある図 |
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史跡説明板の内容
右側の(写真5)は、日置の峠の史跡説明板左下部にある日置の峠周辺の図です。この図に数項目の説明文がありますが、そのことについては、上記項目に既に紹介していますので、参照願います。併せて、最上部(写真1)の黄色点線や文字も、この図と比較して頂けないでしょうか。
次に、(写真2)の中央部に白く写っています日置の峠の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右下側の(写真6)です。
なお、(写真6)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 日置(ひおき)の峠
ここから旧長崎街道は坂を上がります。登りロ脇の岩壁には清水が流れ、かたわらに石橡の地蔵がありました。そこで旅人 は喉(のど)を潤して、旅の安全を願っていたのでしょう。
そして墓の下方を通って行くと、右手は高岸になっていて、松の並木がありました。この南向きで日当たりの良い松並木の道を、「日置の峠」と呼んでいたようです。その先、街道は白鳥川の六十メートル程手前で下って、川の石橋へ続いていました。
なお、鈴田地区内の鈴田川・白鳥川・稲川内川・針尾川・古松川には、天保九年(一八三八)、一斉に石橋が架けられたそうです。それまでは飛び石で渡っていました。
日置の峠は、昭和二十年頃掘られた隧道(ずいどう) (第二十一海軍航空廠疎開工場用のトンネル) で寸断されたため、現在は通れませんが、赤道(あかみち)として一部残っています。
平成二十九年三月三十一日 住みよい町づくリ「チーム鈴田」 >
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・詳細な関係ページ:
(初回掲載日:2018年4月12日、第2次掲載日:4月13日、第3次掲載日:4月17日、第4次掲載日:4月18日、第5次掲載日: 月 日)