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(写真1) 中央部「白鳥前」地名の下側で高速道路の一部下側から右側(東側)周辺が白鳥城跡。斜め状に見える住宅地は白鳥団地(写真はグーグルアースより)
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(写真2) 中央部やや左側(南側)の高速道路(長崎自動車道)の橋脚下側から右側(北側)の民家周辺にかけて白鳥城はあったと言う。(手前の川は鈴田川) |
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(写真3) 中央部やや右側(南側)の高速道路(長崎自動車道)の橋脚下側から左側(北側)の民家周辺にかけて白鳥城はあったと言う。(手前の川は白鳥川) |
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(写真4) 中央部は白鳥城跡の史跡説明板(上側が高速道路、手前側は市道で右側方向へ登ると白鳥住宅団地へ行く) |
史跡説明板写真周辺の説明
この白鳥城跡の史跡説明板がある場所は、岩松町ですが、隣の大里町にある大村市立鈴田小学校の運動場や大村市鈴田出張所(鈴田地区住民センター)の建物より、北西方向へ約250m行った所にあります。なお、(写真4)でも、お分かりの通り、高速道路の下で、市道の脇に立っています。
また、白鳥城跡の場所は、高速道路の工事と、その東側にある白鳥住宅団地の関係で現在では、「ここから、ここまでが城遺構である」と、明確には分かりにくい状況です。ただし、白鳥城跡から南西側(鈴田川周辺から撮った)(写真2)に写っています橋脚下から、その右側の民家周辺にかけての場所が、白鳥城跡と推測されています。
逆に、城跡から北西側(白鳥川周辺)から撮った(写真3)から見れば、橋脚下から左側(北方向)に写っています民家周辺が、白鳥城跡と思われます。(写真2)、(写真3)ともに、雑木や竹林、あるいは藪(やぶ)のために地形が分かりにくいです。
しかし、この史跡説明板がある場所が標高約10m、上部側の白鳥住宅団地の道路が同じく約25mで、かなりの高低差があることが分かります。つまり、この丘(尾根)に登る部分は、市道などがなかった時代には、急峻(きゅうしゅん)とか、断崖絶壁(だんがいぜっぺき)と表現しても、いいくらいの地形と言えます。
今回の白鳥城跡の史跡説明板に添付されている古写真には、まだ、高速道路も白鳥住宅団地もなかった時の丘(尾根状)の形が写っています。そのため、先に述べた急峻な丘の状況も分かります。なお、ご参考までに、この古写真の元は、「鈴田小学校 百年記念アルバム」の中に収められているものです。
あと、繰り返しになりますが、先の古写真、このページの(写真2)、(写真3)あるいは(写真4)でもお分かりの通り、白鳥城跡は、北は白鳥川、南は鈴田川に挟まれた急傾斜の丘(尾根状)の上に築かれた城だということが分かります。また、それは、天然の要害の地でもありました。
つまり、白鳥城は、その地形からして戦国時代、攻めてくる敵側にとって、難攻不落の城だったと推測されます。また、今回の白鳥城跡の史跡説明板がある場所は、先の地形も推測できる位置に立っていて分かりやすい所に設置されてもいます。
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史跡説明板の内容
(写真4)の中央部に白く写っています白鳥城跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側の(写真5)です。
なお、(写真5)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 白鳥(しらとり)城跡
この城は、郷村記によると「周囲七町程(約七六四メートル)、高さ三給間程(約五五メートル)、上の広さは一段一畝程(約一〇九一平方メートル)、背後に横三間(約五・五メートル)、深さ弐間程(約三・六メートル)の堀切(ほりきリ)(防御のための堀)三カ所がある」と書かれています。
城は鈴田の中央に突き出ている山の上に築かれ、北・西・南が断崖状で海の干拓を前にした尾根を成していて、白鳥の生息地だったともいわれています。伝説によれば、戦国時代の前期(一五二〇頃)まで、この地に栄えた鈴田道意(どうい)の砦(とりで)の一つだと伝えられています。
市内の城跡で三本もの堀切があるのは他になく、宅地造成で城跡が消滅したのは残念です。
平成二十九年三月三十一日 住みよい町づくリ「チーム鈴田」 >
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・詳細な関係ページ:『白鳥城』
(初回掲載日:2017年9月10日、第2次掲載日:9月11日、第3次掲載日:9月15日、第4次掲載日: 月 日)