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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 土井の浦窯跡(どい の うら かま あと)

(史跡説明板)土井の浦窯跡(どい の うら かま あと)
 名称:土井の浦窯跡  様式:説明板
 場所:大村市 陰平町(かげひらまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2018年3月31日(平成30年3月31日)  GPS実測値:32度52分57.52秒 129度57分55.25秒
 全体の大きさ:高さ155cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°52'57.52"N,129°57'55.25"E
(写真1) 土井の浦窯跡の史跡説明板(中央部の白い看板) <注:窯跡は、この場所ではなく市廃棄物処理場下手の山中にある>
(写真3) 上図198印は土井の浦窯跡A史跡説明板の位置([大村市の文化財」の地図より一部彩色加工と文字を追加した)
(写真4) 土井の浦窯跡(説明板の左下側の写真より)
史跡説明板写真周辺の説明
 上記(写真1)の場所は、あくまでも土井の浦窯跡の史跡説明板が設置されている所であり、窯跡ではありません。
注:釜跡と、その史跡説明板の位置は、(写真3)の地図を参照> この写真中央部に白く板のように見えていますのが、その史跡説明板です。(写真2)は、近寄って説明板を撮ったものです。

 この説明板設置場所へ、大村市街地から自家用車で行くならば、国道34号線から長崎県道37号大村貝津線
(両側2車線道路)へ入り、釜川内公民館や宮崎新田跡の広い田んぼ右に見ながら南西方向へ進みますと、大村市廃棄物処理場の入口に出てきます。

 そして、この処理場入口周辺から、今は旧道になったような1車線道路に入って行きます。そこを約190m進みますと、右手に上記(写真1)と同じ場所になります。この史跡説明板のある位置から、さらに南方向へ200m弱進みますと、再度先ほどの県道37号大村貝津線に戻ります。

 (写真1)の史跡説明板の奥側(西側方向面)は、ほぼ全部が雑木林で、写真の右側下部には古い鉄柵があります。なお、この道は1車線とはいえ、説明板周辺では道路幅が7m位あります。そのおかげで近くに停車してから、史跡説明板文章を読むのは可能です。

窯跡は海岸線近く
 この項目、まず、(写真3)を参照願います。この画像は、「大村市の文化財」
(2004年3月26日、大村市教育委員会・発行)224ページにある地図です。それをトリミングして、見やすいように大村湾(海)を水色に彩色し、「A←史跡説明板」文字を追加で書き入れたものです。

 この地図で「
〇 198土井の浦窯跡」の文字でもお分かりの通り、この史跡は大村湾(海)から、あまり離れていない場所にあります。この位置関係は、後の「史跡説明板の内容にも書いてあります。さらに、説明板には「窯が使われていた当時、海路が主な交通手段だった」と記述されています。

 ここからは、上野の推測ながら、この窯で焼きあがった茶碗や甕
(かめ)などは、舟で例えば鈴田村ならば鈴田川方向へ、隣の三浦村や大村町方面ならば、それぞれ(当時)港のあった場所へ運ばれていたと思われます。なぜなら、江戸時代の大村藩領絵図を見ると、この窯周辺は海岸線や山林で、道らしきものは、ほとんどありません。しかし、近くの大村湾(海)部分には、「土井浦」との文字が描いてあります。

窯跡の写真
 (写真4)を参照願います。これは、土井の浦窯跡の史跡説明板の左下側に添付されている写真です。ただし、その説明板の出典にも書いてある通り、元々は先の項目と同様に、「大村市の文化財」(209ページ)に掲載されている写真からです。

史跡説明板の内容
 このページ(写真1)と(写真2)に白く写っています土井の浦窯跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側の(写真5)です。

 なお、(写真5)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

(写真5) 土井の浦窯跡の史跡説明板(本体のみ) 

< 土井(どい)の浦窯(かま)
 この窯跡は郷村記によると「延宝四年(一六七六)、大村城下本町の伊佐衛門が土井の浦に七つの燃焼室をもつ窯を開き、茶碗や甕
(かめ)を焼いた」と記されています。北西から南東に向かって造られた連房式の登り窯で、江戸時代の陶器窯の跡です。

 地元では、窯跡の存在は早くから知られていましたが、この場所(現在の大村市廃棄物処理場下手の山中)が郷村記にある窯跡と分かったのは、昭和六十三年の春のことでした。海辺近くにあったことから、窯が使われた当時、海路が主な交通手段であったと思われます。

  そして発見されたのは登り窯二基で、古い方の窯は新しい窯の建設の際に壊され、現在、一部を残すのみとなってしまいました。しかし、新しい窯跡は天井部の近くまで残っており、その状態の良さと、造られた年代が記録から分かる貴重な窯跡として注目されています。

 平成三十年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」  >




補足


  (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


(初回掲載日:2018年3月28日、第2次掲載日:3月29日、第3次掲載日:4月1日、第4次掲載日:4月3日、第5次掲載日: 月 日) 


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