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(写真1) 塔の峰城跡の史跡説明板(中央下部の白い看板。奥側が塔の峰城跡) <手前側が市道で約80m後方(南西)側に南部地区ライスセンターがある> |
史跡説明板写真周辺の説明
まず、(写真1、3)の中央部下部、(写真2)ならば中央部に白色の板のように見えていますのが、今回紹介の塔の峰城跡の史跡説明板です。先の3枚写真後方に小山のように見える全体が、塔の峰城跡です。ただし、この小山状の尾根は、手前側に写っています市道ができる前まで道路の右側(東側)方向まで続いていました。つまり、この市道を造る時に尾根(小山)が、大幅に切り取られたということです。
ここからは、上野の想像ながら戦国時代頃の塔の峰城(市道工事前まで)、尾根(小山)は、あと十数メートルもしくは数十メートル、東側へ伸びていたと思われます。その工事前の状況は、古い航空写真でしか見れませんが、そこに城遺構や遺物が出土したどうかも含めて、特に記録はないようです。いずれにしても、(写真3と4)でも概要分かる通り塔の峰城跡の四方は、今でも険しい形状です。
あと、塔の峰城は、三浦海岸沿いから攻めてくる敵を防御するという重要な城だったと理解しても、現在の城跡位置からして、ここの城だけが鈴田にある他の城と比較してポツンと離れています。しかし、この状況は、あくまでも近代や現代のことです。
先に掲載中の(大村の城シリーズの)「塔の峰城」ページにも詳細に書いています通り、江戸時代の大村藩領絵図には、この城跡近くに道路が描かれています。つまり、江戸時代も、それ以前の戦国時代も、鈴田と三浦海岸沿い間は、この道路が幹線だったとも言えます。だから、鈴田川を背に、この道路周辺から攻めてくる敵を食い止める防御上の(最終の防衛ラインみたいな)意味からも、この場所が城を築くのに適地だったとも思われます。
あと、ご参考までに、この塔の峰城跡の史跡説明板が立っている場所から、市道の南西方向へ約80m登りますと、南部地区ライスセンターが左側にあります。この建物を目印に走行されれば、この史跡説明板の位置関係は、分かりやすいでしょう。
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(写真3) 中央部から左側(西側)の山が塔の峰城跡 <道路工事で城跡右側(東側)方向は相当切り取らている> (注:中央下部の白い板が史跡説明板)
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(写真4) 中央部の小山一帯が塔の峰城跡(グーグルアースより)
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史跡説明板の内容
(写真1、3)の中央下部と、(写真2)の中央部に白く写っています塔の峰城跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、(写真5)です。この写真には、木の影が写っているため見えにくい部分もありますが、ご了承願います。
なお、(写真5)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 塔の峰(とうのみね)城跡
この城は、郷村記によると「釜川内(かまがわち)海際より一〇九メートルほどの東の方・・・頂上平地の東西約四六メートル、南北ニニメートルの雑木山、四方は切岸(きりぎし)(断差)のように険しい。
東北の方は田原、南西の方は深い谷。南の万は高くなっていて、尾根続きで途中に堀切(ほりきり)(防御のための堀)がある」と記されでいます。
そして、「ここは大昔、諌早の領主西郷氏の軍勢が鈴田に攻め込んで来た時に、朝長右衛門大夫純職(すみかね)が、こ二で防戦して討死 した所」と書かれています。首は諌早に持ち去り、中井原という所に埋めてあり、胴体は大村の須田の木という所(六本松の墓地)に埋葬したといわれています。
平成二十九年三月三十一日 柱みよい町づくり「チーム鈴田」 >
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:(大村の城シリーズの)「塔の峰城」
(初回掲載日:2017年12月8日、第2次掲載日:12月9日、第3次掲載日:12月12日、第4次掲載日:12月 日、第5次掲載日: 月 日)