長与専斎(ながよ せんさい)
生没年:天保9年8月28日 〜 明治35年9月8日 (1838年10月16日 ~1902年9月8日)
出身地:長崎県
職業・身分:医師・薬剤師等
別称:松香(しょうこう)
解説 : 医師・衛生行政家。父は肥前大村藩医。安政元(1854)年大坂の適塾に入門し、のち塾頭となる。万延元(1860)年長崎に赴き、ポンペについて蘭医学を学んだ。明治4(1871)年上京し、文部少丞となり岩倉遣欧使節団に随行して渡欧、西欧の医学教育を視察、調査。6年に帰国後、文部省医務局長。8年内務省衛生局の初代局長となる。司薬場の建設、医制の制定、防疫・検疫制度の導入など、わが国衛生行政の基礎を築いた。元老院議官、貴族院議員などを歴任。回想録『松香私志』(1902)がある。
史跡説明板写真周辺の説明
この長与専斎の旧宅の史跡説明板のある場所は、長崎医療センターの玄関方向に行く場合、2車線道路の左手(北側)方向にあります。さらに先の道路から5~10m位、病院敷地内に入った所に、この史跡説明板と、そのことを示す案内標柱(写真2を参照))も立っています。あと、この逆位置側(西側方向)には、職員用駐車場の入り口です。
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写真中央部:長与専斎の旧宅の史跡案内標柱
左奥側は史跡説明板と旧宅、右奥側は「長与専斎先生の銅像」 |
また、この
長与専斎の旧宅の史跡説明板の場所から見れば、その
旧宅は奥側(北側)、「
長与専斎先生の銅像」は、右側(東側 )になり、いずれも5m位の位置にあります。
(写真1、2参照)また、
説明板、
旧宅や
銅像まわりには、木々も繁っていますので、野鳥や虫の鳴き声も聞こえています。あと、念のため、この史跡説明板内容は、「
長与専斎の旧宅」という名称通り、説明板の奥にある建物(
旧宅)紹介が書き出しとなっています。
ただし、同氏の
経歴や
功績などの内容も多く書いてあります。同氏の
人物紹介は、この項目の前後にも書いていますので、その内容を参照願います。
史跡説明板の内容
上から1番目写真の中央部に写っていますのが、長与専斎の旧宅の史跡説明板です。そして、その説明版を拡大写真したのが下記右側です。この説明板には、下記点線内の青色文章が書いてあります。なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。
また、見やすくするために改行、行間なども一部変えています。さらに、記号も一部変えて、表示していますので、あくまでも、ご参考程度に閲覧願います。なお、上野の転記ミスなどもありますので、引用・参照される場合は、必ず実物の説明板からお願いします。
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市指定史跡
長与専斎(ながよ せんさい)の旧宅
長与専斎は、種痘で有名な藩医長与俊達(ながよ しゅんたつ)の孫で天保九(一八三六)大村片町で生まれました。父•中庵も蘭学を学んだ医者でしたが四歳の時に亡くなったため専斎は祖父俊達によって育てられ祖父の影響で医学を志すようになりました。藩校五教館で学んだ後、安政元年(一八五四)大坂の緒方洪庵(おがた こうあん)の適塾で蘭学を学び、同六年長崎のポンペの医学伝習所などで体系的に医学教育の確立のために力を注ぎました。
明治四(一八七一)欧米の医q制度を視察した後、文部省の医務局初代局長となり、後には、東京医学校の校長も兼任しました。その後、医務局は、内務省衛生局と変わり、専斎は初代局長となりました。「衛生」という用語は、このとき専斎によって作られたことは有名で、近代医療制度の基礎を築いた人物として日本の近代化に大いに貢献しました。死後、生前の功により、男爵を授けられています。
この旧宅は、天保初年(1830年頃)俊達が建てたもので、「宜雨宜晴亭(ぎうぎせいてい)」と呼ばれ、当時は片町の海岸にあり、専斎は幼少のころ、この家で育ちました。明治三十三年国立大村病院長篠崎哲四郎氏や、田作甚作氏などの尽力により、現在の場所に移築されたので、専斎の号をとって「松香館」と呼ばれています。
平成九年三月
大村市教育委員会
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補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:「長与専斎先生の銅像」
(初回掲載日:2024年5月31日、第2次掲載日:6月19日、第3次掲載日:8月8日、第4次掲載日:9月23日)