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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など  長与専斎先生の銅像 
 
 概要紹介 -
 長与専斎氏の人物紹介 掲載中
 銅像前の説明板について 掲載中 
 1)碑文内容について -
 2)大きさ、緯度経度など
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   緯度経度など
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 3)------
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 まとめ
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
(写真1) 中央やや右側が長与専斎先生の銅像 (大村市久原二丁目、長崎医療センター敷地内で、その入口周辺にある)
左側が長与専斎の旧宅、その手前側が「長与専斎の旧宅の史跡説明板」である。
 注1:この碑の正式名称は、「長与専斎先生」である。普通、書籍やホームページ類で記念像などを紹介する場合、「銅像」とか「記念像」などを付ける方が分かりやすいので、上野も補足して書いている。

 注2:この銅像の正面向かって左側に「長与専斎の旧宅」や、その「長与専斎の旧宅の史跡説明板」がある。右側方向が長崎医療センターである。

 
概要紹介



(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


長与専斎氏の人物紹介)
(写真A 長与専斎の銅像
(銅像は本エージに紹介中) 
(写真B) 長与専斎の肖像写真
(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」の「長与専斎」より

<用語解説>(下記の用語解説の出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」の「長与専斎」より)

長与専斎(ながよ せんさい)
 生没年:天保9年8月28日 〜 明治35年9月8日 (1838年10月16日 ~1902年9月8日)
 出身地:長崎県
 職業・身分:医師・薬剤師等
 別称:松香(しょうこう)
解説 : 医師・衛生行政家。父は肥前大村藩医。安政元(1854)年大坂の適塾に入門し、のち塾頭となる。万延元(1860)年長崎に赴き、ポンペについて蘭医学を学んだ。明治4(1871)年上京し、文部少丞となり岩倉遣欧使節団に随行して渡欧、西欧の医学教育を視察、調査。6年に帰国後、文部省医務局長。8年内務省衛生局の初代局長となる。司薬場の建設、医制の制定、防疫・検疫制度の導入など、わが国衛生行政の基礎を築いた。元老院議官、貴族院議員などを歴任。回想録『松香私志』(1902)がある。


銅像前の説明板について
 (写真1と2を参照) 長与専斎先生の銅像台座の前(正面に向かって右側)に白板の説明板があります。実は、本銅像それ自体の長与専斎の人物紹介や建立趣旨は、台座の裏面に金属プレートで造られた立派な碑文があります。

(写真2) 中央部は長与専斎先生の銅像台座、手前右側の白板は説明板
 なぜ、このような白板の説明板が設置されているのでしょうか? ここからは、全く上野個人の推測ながら、本銅像の台座裏面周辺は、太陽光線の関係で周囲の樹木や日中の見学時間帯においては、たいてい日陰になります。あと、先の台座裏面碑文は、汚れや変色もあり、また達筆な昔の漢字も多いため、一般には読みにくい碑文ともいえます。そのようなことから、先の白板の説明板が表側(銅像の手前側)にも、設置されと思われます。

 注1:この白板の説明板には、(写真3)の通り縦書き文章で書いてある。それを横書きに直したのが、下記点線内の青文字である。

 注2:原文は、そのまま生かしたいが、小中学生も本ページを閲覧する可能性があるので、例えば長与の「与」、専斎の「斎」をはじめ、その多くが昔の難しい漢字のため常用漢字に変えた。

 注3:また、原文には西暦表示以外に( )内の文字はない。しかし、先と同様の理由で今回あえて( )内に送り仮名を付けた。さらに原文の趣旨を変えない範囲内で文字のつながりの関係上、「の」などの文字を追加、あるいは分かりやすくするために原文と違う句読点や改行をしている。なお、原文については、(写真3)を参照願う。

 注4:下記の点線内の青文字は上野の転記ミスもあるので、あくまでも参考程度に閲覧願いたい。もしも引用参照されるならば、必ず実物の白板の説明板からして頂きたい。
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<注:下記
青色文字白色の説明板の全文
 
長与専斎は、種痘(しゅとう)で有名な大村藩医(はんい)、長与俊達(しゅんたつ)の孫(まご)として、天保(てんぽ)九年(1838)、大村の片町に生まれる。父の中庵(ちゅうあん)は専斎(せんさい)が二歳七月の時の没した(ぼっした)ため祖父(そふ)俊達(しゅんたつ)に育てられ医学(いがく)を志す。藩校(はんこう)五教館(ごこうかん)で学び、安政元年(あんせいがんねん)(1854)、緒方洪庵(おがた こうあん)の適塾(てきじゅく)で学び福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)の後継(こうけい)として塾長(じゅくちょう)を勤(つと)める。

(写真3) 上記写真の手前右側に写っている白板の説明板の拡大案
 萬延元年(まんえん がんねん)長崎伝習所(ながさき でんしゅうしょ)に入り蘭医(らんい)ポンペに学び、後(のち)長崎医大(いだい)の前身(ぜんしん)である精得館(せいとくかん)が長崎医学校となり、校長(こうちょう)に就任(しゅうにん)、大学少博士(だいがくしょうはくし)に任(にん)ぜられる。

 明治(めいじ)六年、欧米(おうべい)視察(しさつ)を終えて帰朝(きちょう)し、文部省(もんぶしょう)に医務局(いむきょく)が設置(せっち)せられるや、その初代局長(しょだい きょくちょう)、更(さら)に衛生局(えいせいきょく)を創設(そうせつ)して、初代局長となり、医制(いせい)七六条(じょう)の制定(せいてい)など近代(きんだい)医療制度(いりょう せいど)また公衆衛生(こうしゅう えいせい)の基礎(きそ)を確立(かくりつ)する。

 その後、貴族院議員(きぞくいん ぎいん)となり、男爵(だんしゃく)を授(さず)けられ、宮中顧問官(きゅうちゅう こもんかん)となった。正三位(しょうさんい)勲一等(くんいっとう)を賜り(たまわり)、近代医学制度(きんだい いがく せいど)の祖(そ)と仰(あお)がれ、明治二十五年六十五才で逝去(せいきょ)した。

 この胸像(きょうぞう)は、昭和三十一年十一月、長与専斎先生顕彰胸像建設会(ながよせんさい きょうぞう けんせつかい)により大村市民病院内に建立(こんりゅう)されたが、大村市民病院の建て替え(たてかえ)、長男(ちょうなん)の長与称吉(ながよ しょうきち)の胸像(きょうぞう)が生家(せいか)に移設(いせつ)されることを機(き)に本院(ほんいん) 宣雨宣晴亭(ぎうぎせいてい) に移設(いせつ)されることになった。

 平成二十五年四月
          国立病院機構 長崎医療センター

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1)碑文内容について
 

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<表面(正面)の碑文>
 

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<裏面の碑文>
 

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2)大きさ、緯度経度など
  


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長与専斎一先生の銅像の大きさ

 全体  高さ:cm  -  -  -
 銅像(本体部)  高さ:cm  横幅:cm  胸部の周囲  底部の厚さ(奥行)
 台座その1  高さ:cm  上部横幅: cm  下部横幅: cm 下部の周囲:
 台座その2  高さ: cm  横幅 cm  奥行き cm. 周囲 cm
 土台  高さ:cm  横幅 8cm  奥行きcm
周囲cm

表面の碑文プレート:高さ cm、横幅 cm
裏面の碑文プレート:高さ cm.、横幅  cm

長与専斎先生の像の緯度経度(GPS実測値)
 名称:長与専斎先生の銅像  場所久原二丁目、長崎医療センター敷地内
 GPS実測値:
 (国土地理院)地図検索用 
 グーグルアース用数値:  標高:m

 



 (この項目の原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)




補足
 

 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:長与専斎の旧宅の史跡説明板」  

    、 
(初回掲
載日:2024年6月6日、第二次掲載日:7月3日、第三次掲載日:7月8日、第四次掲載日:7月13日、第五次掲載日 月 日、第六次掲載日: 月 日、第七次掲載日: 月 日)

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