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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 岸高城跡(きしたかじょうあと)

(史跡説明板)岸高城跡(きしたかじょうあと)
 名称:岸高城跡  様式:説明板
 場所:大村市 中里町(なかざとまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2017年3月31日(平成29年3月31日)  GPS実測値:32度53分18.59秒 130度00分15.49秒
 全体の大きさ:高さ130cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°53'18.59"N,130°00'15.49"E
(写真1) 岸高城跡の史跡説明板(中央部下部、白色の説明板。手前側が市道。後方の小山全体が岸高城跡)

(写真2) 中央部は千部様(せんぶさま) <後方は岸高城跡

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、上段の(写真1)の場所ですが、国道34号線にある県営バス停「日焼」から北東方向へ200m近くの所にあり、岸高城跡全体からすれば北東部になります。また、(写真1)の手前側は、市道の三差路です。あと、この史跡説明板がある後方の周囲全部が、岸高城跡です。

 次に下段の(写真3)ですが、この位置は前に同じく、南東側になります。そして、中央部に写っています小山(山林)が岸高城跡です。なお、手前右側の市道を数10m登った位置に、(写真1)の史跡説明板があります。

 前に同じく(写真4)ですが、これはグーグルアースの空中(航空)写真です。中央部や、その周囲全体が岸高城跡になります。詳細は、岸高城跡ページに縄張り図も添付していますので、参照願います。この城跡は、当然全部の城遺構ではありませんが、主曲輪腰曲輪切岸堀切などが、けっこう今でも分かる状況で現存しています。

 次にページ右側の(写真2)を参照願います。これは、(写真1)中央部の史跡説明板の左側方向に写っています銅色系(オレンジ色系)屋根の建物を正面から撮影したものです。下記項目の史跡説明板の内容によれば、この史跡は、「千部様(せんぶさま)」という悪病退治の神様とのことです。建立年代は不明のようですが、今も地元の方々が大事に祀っておられるようです。

(写真3) 中央部の小山(山林)が岸高城があった所。(山林の手前側が市道)

(写真4) 中央部の小山(山林)が岸高城跡(工事中で楕円形の平地が良く見える) (グーグルアースより)

(写真5) 岸高城跡史跡説明板(本体のみ)

史跡説明板の内容
 このページ最上部(写真1)の中央部に白く写っています岸高城跡史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側の(写真5)です。なお、(写真5)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

   岸高(きしたか)城跡
 この城は、郷村記によると「高さ拾間(一八メートル)〜拾七・八間(三〇メートル)ばかり、 城構(しろがま)へ東西拾三間(約二三メートル、南北弐拾間(約三〇メートル)程、平地にて小松立四面切岸(きりざし)なり」と記されています。

 構造は楕円形の主曲輪と北側につく腰曲輪 からできていて、主曲輪の周囲は切岸(断崖)になっているのが分かります。城というより砦(とりで)だったようで、現在、西側に堀切(ほりきり)(防御のための堀)がニカ所残っています。

 築城者も築城年代も不明ですが、おそらく戦国時代に諌早本野方面から攻めて来る敵を防いだものと考えられます。なお 岸高城の東側の道路脇に祭ってあるのは、「千部(せんぶ)様」という悪病退治の神様です。

 平成二十九年三月三十一日  住みよい町づくリ「チーム鈴田」 >


 注:上記及び右側(写真5)の史跡説明板は、2017年3月31日付けで設置されたものである>


補足


(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


・詳細な関係ページ:岸高城

(初回掲載日:2017年8月18日、第2次掲載日:8月22日、第3次掲載日:8月26日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日) 


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