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大村の城シリーズ 岸高城(きしたかじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  岸高城(きしたかじょう)
(2)別名  岸高の古城
(3)所在地  大村市中里町(なかざとまち) 
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  平山城 
(6)城主など  不明
(7)現状(遺構)  切岸らしき跡が見られる
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記に記載されている
(9)土地や管理など  -

(10)補足、感想など
  岸高城は、江戸時代の(大村)郷村記に記述され、さらに『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、2012年版)の27ページ、『新編 大村市史・中巻』(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行)に紹介されている。そのいずれもが、城址の場所として、国道34号線にある県営バス停「日焼」から北東方向へ約170mの所にある小高い山林である。この山は、東南側が急な斜面で、北西側方向へはなだらかに続いている。

 また、この場所は、大村領と諫早領との境界線へ、あと五百数十メートルの位置関係にある。つまり、戦国時代、諫早領から敵が攻めてきた場合、その防御の役目を果たした城(砦)だったと思われる。城(砦)としては、自然の小山を、ほぼそのままつかって築かれたものと推測されるが、一部において切岸と思える場所もある。それ以外、ほとんど城址の遺構などは失われているようだ。


1)岸高城を紹介するにあたって
 岸高城に関して記述してある江戸時代作成の(大村)郷村記紹介及び(2014年3月31日、大村市史編さん委員会発行の)『新編 大村市史・中巻』紹介は、後の項目で書きます。その前に、『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)26ページに、その概要が書いてありますので、先にこれを引用して、下記「 」内に書いていきます。

中央部の小山(山林)が岸高城があった所。(山林の手前側が市道)

  岸高城  この城は、中里町岸高の国道34号線から北東に見える小山の所にありました。 現在ここは雑木林で、東南の方は急傾斜になっており、北西の方は緩やかな 傾斜面で、水田に出会う所で山はとぎれます。 郷村記によると「高さ10間(約18m)〜17.8間(約30m)ばかり」 と記されています。

 山の稜線が、東が高く西が低くなっているので、高低差をつけて記録されたものと思われます。 築城者も築城年代も不明ですが、おそらく戦国時代に諌早本野方面からの敵 が攻めて来るのを防いだものと考えられます。 城というより砦だったようで、わずかに堀切りらしい所が残っています。 

右側1番目写真の説明
 写真中央部の小山(山林)が岸高城があった所です。この山林の手前側が市道で小山を中心に半周近くぐるっとまわっています。この小山は、写真に写っている側(東南側)が急傾斜です。また、この写真には写っていませんが、北西側に緩い傾斜が続いています。

 北側面は工事以前には、切岸や曲輪(くるわ)など城の遺構が視認できたようですが、現在は確認しづらい状況です。写真に写っている側は、大きな変化はないようです。

2)岸高城大村郷村記の記述
 江戸時代の大村藩が編纂した郷村記(通称:大村郷村記)鈴田村の古城蹟之事の項目に、「岸高の古城」(注:岸高城のこと)として書いてあります。この大村郷村記によりますと、「岸高の古城」については、次の「 」内通りです。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字に上野の方で変えています。

  あと、原文は縦書きの続き文ですが、横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行もしています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。

  「
 一 岸高の古城  古松権現鳥居の本より寅卯の方七町程の所にあり、高拾問又ハ拾七、八間程、城構へ東西拾三間、南北貮拾間程、平地にて小松立四面切岸なり、

 西の方に横壹問程、深サ壹間程、長拾貮間程の堀切貮ヶ所あり、水の手東の方麓にあり、東南の方田地少しあり、西北の方田原なり  

現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、私が付けた補足や注釈です。

中央部の小山(山林)が岸高城址(工事中で楕円形の平地が良く見える) (グーグルアースより)

  また、(大村)郷村記は、岸高城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

    一つ 岸高の古城  古松権現の鳥居の元(起点)より寅卯(東北東)の方角で約1,090mの所にある。(城址のある小山の)高さは約18mまたは約31m・約33mほどである。城構え(城の造り)は東西約24m、南北約36mほどである。(城のあった土地形状は)平地で、(そこには)小さな松の木があって四面(四方)は切岸である。

  西の方に横1.8mほど、深さ1.8mほど、長さ約22mほどの堀切が二か所ある。水の手(水を供給する場所)は(城址の)東側の山麓にある。東南側に少し田んぼがあり、北西の方角は田んぼが広がっている。 

右側2番目写真の説明
 このグーグルアースの写真中央部の小山(山林部)が、岸高城です。上記の大村郷村記内容の通り、東南側が急斜面で、北西側は緩やかな斜面になっています。城址の東側や南側(写真の場合、右側や下側)の山林部は昔と、ほとんど変わっていないと思われます。北側や小山の頂上部(城址部分)は、工事などによって変わったと思われます。

 また、大村郷村記の記述にある城用の「水の手」(水を供給する場所)は、上野が黄色文字で「岸高城址」と書いた山麓周辺と思われます。なお、同じく「西北の方田原なり」(北西の方角は田畑の平野である)との内容は、写真上部に字(あざ)「岸高の後」の左側(西側)方向のことと思われ、現在でも広い田んぼが沢山あります。

3)大村市史の記述と縄張り図
 2014年3月31日に『新編 大村市史 第二巻 中世編(大村市史編さん委員会)が、発行されました。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史828〜830ページに、「二 岸高城」の記述と、「平ノ前城、専念寺、岸高城の縄張図」があります。縄張り図の作図は、大野安生氏です。

(右図の拡大版) 岸高城の縄張り図

平ノ前城、専念寺、岸高城の縄張図

 今回、下記< >内の通り、市史の記述内容と縄張り図を紹介します。なお、市史の全体図は周囲の状況も分かり見やすいのですが、ホームページ上、小さくなりますので岸高城だけの拡大図も併せて掲載しています。

 原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。また、縄張り図の縮尺比率は同じでも、サイズは違っていますので、その点もご了承願います。

  岸高城 専念寺のある館から南東側に約五〇〇メートル離れた地点に岸高城はある。『大村郷村記』には、 岸高の古城として「城構へ、東西拾三間(約二三メートル)、南北貮拾間(約三〇メートル)程」とある。

 曲輪は楕円形の主曲輪と北側につく腰曲輪からなり、主曲輪の周囲は切岸が明瞭である。また腰曲輪の北端は道路と民家で削られており、 曲輪の西側には二重の堀切が残る。

 城の立地や規模から推測すると、平ノ前城及び館と同じ時期に、街道沿いの領地の東境を守った砦であり、 伊佐早領西郷氏を警戒するために築かれたものと考えられる。 

補足



(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2015年1月16日、第2次掲載日:1月17日、第3次掲載日:1月18日第4次掲載日:1月19日第5次掲載日:1月20日第6次掲載日:1月21日第6次掲載日:1月 日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

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