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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 専念寺(せんねんじ)

(史跡説明板)専念寺(せんねんじ)
 名称:専念寺  様式:説明板
 場所:大村市 中里町(なかざとまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2017年3月31日(平成29年3月31日)  GPS実測値:32度53分20.39秒 130度00分04.78秒
 全体の大きさ:高さ146cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°53'20.39"N,130°00'04.78"E

(写真1) 中央部の大屋根が専念寺の本堂(手前側方向に国道34号線がある。左後方の山は平ノ前城跡。2015年1月7日南側から撮影)

史跡説明板写真周辺の説明
 高丘山・専念寺(こうきゅうざん せんねんじ)は、この周辺で寺院自体が目印ですが、国道34号線から約200m北側にあります。上部の(写真1)で説明するならば、(写真中央部に大屋根が見えている)寺院の手前側方向が南側で国道34号線方向です。

(写真2) 中央部は専念寺の史跡説明板

 そして、写真奥側が、北側となります。また、この寺の本堂から北側(写真奥側)へ、約50m行った所には鈴田川の本流、逆に南側(写真手前側)約130mには、鈴田川の支流もあります。

 (写真1)(写真2)、(写真3)でも、お分かりの通り寺関係の建物や墓地のある場所は、その周囲にある田畑や川などより一段と高い、丘のようになっています。そのためか、寺の山号(さんごう)も、「高丘山」なのかもしれません。これは、水害などを避けるために、寺院などが小高い場所に建てられたものと思われます。

 (写真2)の中央部に白く写っていますのが、専念寺史跡説明板です。中央部左側(西側)に墓地、その奥側(北側に高い石垣や白壁が見えています。写真右側(東側)が正門、境内へ登る階段、その上部が山門、さらに奥の左側(北側)に本堂の大屋根が見えています。

 専念寺の本堂から約170m行った所には、(写真1)の左奥側に平ノ前城跡がある小山(山林)が写っています。この城跡は、主曲輪、堀切、土塁などの城遺構も確認できる所です。これらの詳細は、平ノ前城跡ページに、縄張り図や写真なども掲載していますので、参照願います。なお、この平ノ前城跡を東西に横切る形で、西九州新幹線・長崎ルートの工事関係(遺跡発掘調査含めて)が、(2017年7月現在)進んでいます。

(写真3) 中央部は専念寺)<2014年11月5日、南西側から撮影>

(写真4) 中央部は専念寺)<2014年11月5日、南東側から撮影>



(写真5) 専念寺史跡説明板(本体のみ)

史跡説明板の内容
 (写真2)の中央部に白く写っています専念寺史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側の(写真5)です。

 なお、(写真5)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

   専念(せんねん)
 浄土宗の高丘山(こうきゅうざん)一心院専念寺は、正保元年(一六四四)藩主大村純信(すみのぶ)による創建で、開山は荘蓮社心誉単冏上入です。

 その頃、領地改めで百姓と争い合いになり、薄主自らがこの高台 に検見場(けんみじょう)を設けて評議をしました。それに負けた百姓たちは上納の過重を負わされて、水喧嘩が激しくなりました。

 ある時、いきり立った農夫と見廻リ役の足軽が争い、農夫を切ってしまいました。そこで蜂起した百姓をなだめるため、足軽も高台で切腹となりました。

 その後も水争いと不作、そして上納の過重で物心両面の苦しみが 続いたところから、これは切腹した足軽の怨霊だという評判がたちました。そこで領主は豊作を願って水争いを鎮め、さらに怨霊の菩薩を供養するために堂宇を建てたのが、寺の始まりと伝えられています。

 平成二十九年三月三十一日  住みよい町づくリ「チーム鈴田」 >



補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2017年8月23日、第2次掲載日:8月27日、第3次掲載日:8月31日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日) 


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