|
(写真1) 中央部やや左側(西側)で最上部の山林周辺が平ノ前城<手前側は専念寺。寺と城跡の間に鈴田川がある。右側最奥、左の山は郡岳(826m)、右は遠目山(849m)>
|
|
(写真2) 中央部、最上部の山林周辺が平ノ前城<手前側は専念寺> |
1)平ノ前城を紹介するにあたって
この「大村の城シリーズ(目次ページ)」で、各城を紹介する場合、古記録があれば江戸時代の(大村)郷村記もしくは大村藩領絵図から、近代・現代の書籍類ならば『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、2012年版)などから、必ず引用・参照しています。
しかし、この平ノ前城は、先の史料にも書籍類にも書いてありません。これは、数年前の新幹線建設予定地周辺を調査中に、この城跡が発見された関係からだといえます。そして、2014年3月31日に大村市史編さん委員会から発行された『新編 大村市史・中巻』の828ページに平ノ前城の記述、829ページに城の縄張り図があります。
このようなことから、平ノ前城を紹介するには、後の項目で書く予定の『新編 大村市史・中巻』から引用するか、自分で現地を調査・研究するしか方法はないとも思えます。そのようなことから、他の城紹介ページとは、若干違った内容になっていることは、あらかじめご了承願います。
右側の1と2番目写真の説明
この2枚の写真は、同じ場所からほぼ同じ(北)方向に向いて望遠レンズの付いたカメラを構えて撮ったものです。ご覧の通り、右側1番目が平ノ前城がある中央部の山林を中心に遠景・近景を入れた、いわば全景写真です。
この写真の手前側に、普通の民家より高くて広い瓦屋根が見えるのが、専念寺です。写真最奥の右側の山で左の山は郡岳(826m)、右は遠目山(849m)です。なお、専念寺と平ノ前城の間には、鈴田川の本流があり、さらに西側にも支流が流れていて、自然の防御の役目を果たしていたと思われます。
2番目写真は、上記で紹介しました山林部分を中心に拡大したように撮ったものです。平ノ前城がある場所は、この写真の方が分かりやすいと思いますので説明いたします。城跡と思われる四方の切岸周辺部は、山林の最上部から北北東へ30m弱、逆に南南東へ50m弱くらいの長さで、東西間の幅は50m位です。
城遺構が失われた部分も当然あると思われますが、先のようにサイズからして、長方形に近い形状があります。(下記の項目の縄張り図を参照) あと、この山林でもお分かりの通り、手前側(南東側)斜面は、急傾斜です。また、逆面の北西斜面も同じように急斜面です。
そのようなことからも平ノ前城は、自然の地形をうまく利用して造られた城だと言うことが、写真からもうかがえます。
2)大村市史の記述と縄張り図
先の項目にも書きましたが、この平ノ前城について記述されているのは、唯一、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編』(大村市史編さん委員会)だけです。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史828〜829ページに、「一 平ノ前城」の記述と、「平ノ前城、専念寺、岸高城の縄張図」があります。縄張り図の作図は、大野安生氏です。
|
|
(右図の拡大版) 平ノ前城の縄張り図 |
|
今回、下記< >内の通り、市史の記述内容と縄張り図を紹介します。なお、市史の全体図は周囲の状況も分かり、見やすいのですが、ホームページのレイアウト上、小さくなりますので平ノ前城だけの拡大図も併せて掲載しています。
原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。また、縄張り図の縮尺比率は同じでも、サイズは違っていますので、その点もご了承願います。
< 平ノ前城
大村市平町に所在し、平成二十一年新幹線建設に伴う分布調査の際に新たに確認された山城である。多良山系から南にのびる丘陵の先端部に位置し、 標高約六〇メートルの幅狭の低丘陵上に立地している。
主曲輪部分は隅を明瞭に持つ長方形状で、北側は現在ミカン畑となっているものの切岸が明瞭で、曲輪西側と北側には二段から三段の帯曲輪や腰曲輪が配されている。
主曲輪の南側には堀切(a)とその内側に土塁が残る。更に南側先端部は曲輪の存在が予想されたが、切岸など明瞭な遺構は観察されなかった。『大村郷村記』の鈴田村の古城の記録にはいくつかの城の記述があるが、 この平ノ前城がどの城に当たるかは不明である。
平ノ前城の南側の鈴田川対岸に、隅丸の方形を呈する館がある。今は浄土宗専念寺という江戸期由来の寺院があるが、墓地の中に南北朝以降の中世石塔(残欠)が数基分確認できる。 こうした館と隣接する高台部分に小規模な山城を有するという構えは長崎県周辺の城館に時々見られる特徴といえる 。 >
3)平ノ前城の遺構写真
先述の「1)平ノ前城を紹介するにあたって」項目で紹介しました城跡を遠方から撮影した写真とは別に、この項目では城の遺構写真をご紹介します。まず、この項目の右側6枚写真(3〜8)を参照願います。
|
|
(写真3) 中央部左右:石垣 |
|
|
|
(写真5) 中央部:曲輪、右側:切岸 |
(写真6) 中央部やや左側で手前〜奥側:土塁 |
|
|
(写真7) 、左側:切岸、右側:堀切 |
(写真8) 手前から堀切、切岸、土塁 |
(写真3)は、城跡北側にある石垣である。ただし、戦国時代当時のものか、あるいは後世の造りかは不明である。
(写真4)は、主曲輪(頂上部西側)周辺である。ただし、写真より、やや右側(東側)が最上部になる。(最上部は雑木林が邪魔して分かりにくいので、この写真とした)この頂上周辺の土地形状は、全体ほぼ平らである。
(写真5)は、中央部(奥が北側、手前が南側)が曲輪で、右側(東側)が切岸である。この周辺では曲輪が2段から3段にあることが明瞭に分かる場所である。
(写真6)は、先の項目「2)大村市史の記述と縄張り図」で紹介中の縄張り図”a”の堀切上部(北側)にある土塁である。この写真では中央部やや左側で上下(手前から奥側へ=東西間)に見えている。この土塁は右側の平地より少し盛土状態になっているのが分かる。土塁の左側(南側)は(写真8)で見える切岸の上部にあたる。
(写真7)は、前写真説明と同じく、縄張り図”a”の堀切と、その左側(北西側)にある切岸である。次の(写真8)の西側に当たる。切岸がやや急傾斜で、手前から奥側へ見える堀切の状況も分かりやすい。
(写真8)は、前と同じく、縄張り図”a”の堀切が手前側、その次が切岸の(南側)斜面、その上部に(写真5)の土塁が見えている。前の(写真7)の東側にあたる。
以上の6枚写真でもお分かりの通り、平ノ前城全体、現在は山林で木が繁っていますので写真にしますと分かりにくいです。しかし、肉眼では城遺構の、例えば写真紹介しています切岸、土塁、曲輪などは、一部を除き分かりやすいです。
ただし、山林の東斜面全体は、どの場所も城遺構が明瞭でなく分かりにくいものです。ここからは、上野の推測・想像です。戦国時代から東斜面に切岸や曲輪がなかったとすれば、急傾斜だったため天然(自然地形)の要害だったため、当初から造る必要性がなかったとも思われます。
逆に、築城時に、その城構えが造られたとすれば、500年の風雨・風雪の影響と急斜面のため崩れやすかった可能性もあります。ただし、あまり現在の状況から推測ばかりするのは良くないことですので、これ以上はしないことにします。あと、この城遺構は、今度の新幹線工事の関係から、ほとんどなくなるようです。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)