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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 鈴田道意館跡(すずた どうい やかたあと)

(史跡説明板)鈴田道意館跡(すずた どうい やかたあと)
 名称:鈴田道意館跡(すずた どうい やかたあと)  様式:説明板
 場所:大村市 大里町(おおざとまち)  設置者:住みよい町づくリ「チーム鈴田」
 設置年:2019年3月31日(平成31年3月31日)  GPS実測値:32度52分48.22秒 129度59分47.53秒
 全体の大きさ:高さ140cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°52'48.22"N,129°59'47.53"E

史跡説明板写真周辺の説明

(写真1) 鈴田道意館跡(『大村市の文化財』、1990年3月31日、大村市教育委員会、121ページ写真より 

(写真2) (中央部の白板が)鈴田道意館跡の史跡説明板

 まず、(写真2)から参照願います。この写真の中央部に白い板のように見えている案内板があります。これが、今回紹介しています鈴田道意館跡(すずた どうい やかたあと)の史跡説明板です。
(写真撮影:2019年4月15日)

 この場所は、高速道路(長崎自動車道)を走行する車の音以外、野鳥の鳴き声が聞こえるくらい静かで、日当たりの良い所です。なお、この(写真2)の手前側道路を右手前側(南側)方向へ、高速道路の側道を、ほぼ直線で約360m走行しますと、現在は町墓になっている所に、鈴田道意の墓があります。この墓碑は、大村市の指定史跡です。

 次に、上側の(写真1)を参照願います。この画像は、『大村市の文化財』
(大村市教育委員会、1990年3月31日発行)121ページに掲載されている鈴田道意館跡紹介の写真です。

 ご参考までに、(写真1)の撮影地点は、上記の史跡説明板より手前側の道路を左側(北側)方向へ、約30m行った地点と思われます。今より、この1990年当時の写真が、土地や石垣などの形状が分かりやすいと思われます。なお、手前右下側に少し写っています道路は、今もほとんど変わっていません。

 ただし、この土地形状が比較的分かりやすい写真でも、鈴田道意の館があった当時(つまり戦国時代)、例えば建物、さらには庭などの配置状況は、一定の想像はできますが、詳細は分かりにくいです。

 また、史跡説明板に表示してある概略図を見ますと、鈴田道意が住んでいた頃の周辺部の道も残っているようです。ただし、今は、車が行き来する道路が、主でしょうから当時と使われ方は、違っているでしょう。

・周辺の概略図について
 この項目、まず(写真3)を参照願います。この概略図は、(写真4)でもお分かりの通り、鈴田道意館跡(すずた どうい やかたあと)の史跡説明板の下部に図示されているものです。この史跡周辺が分かりやすいので、概略図の左側から順次説明していきます。

 ・道意館跡(大屋敷)---ここに今回の史跡説明板も立っている。
 ・籠り屋敷-----------護衛
(ごえい)の侍(さむらい)がこもっていた所。
 ・道さま-------------道意の供養のため石の祠
(ほこら)を地元の人が文政年間に建立した。
 ・囚人坂------------囚われた所(大屋敷)と小屋敷(同伴の侍の住居)を行き来した坂と思われる。
 ・山屋敷-----------名称からして山側に別の屋敷があったのだろう。
 ・道意の墓---------鈴田道意の墓があり、現在、大村市の指定史跡にもなっている。

 
 (写真3) 鈴田道意館跡周辺の概略図(下記写真下部右側の部分拡大)

(写真4) 鈴田道意館跡の史跡説明板(本体のみ) 

 なお、この概略図の左端側(北側)から右端側(南側)まで、直線でも約360mです。そのようなことから、上記の史跡周辺だけならば歩いて回れる距離関係になります。また、これらの史跡は、全部が(写真3の下段に見える)内倉川や高速道路(長崎自動車道)の東側にあります。

史跡説明板の内容
 このページ(写真2)に横位置で白く写っています鈴田道意館跡(すずた どうい やかたあと)の史跡説明板には、、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側下段の(写真4)です。

 なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

 <鈴田道意館跡 (すずたどういやかたあと)
 鈴田道意は越前守純種
(すみたね)と称し、道意というのは号名です。大村純治(すみはる)・純伊(すみこれ)に仕え、純治の娘を妻に迎え、岩松城主として鈴田村を治めたと伝えられています。

 文明六年(一四七五)、島原の有馬貴純が大村領に攻めてきたとき、道意は領主大村純伊(順治の子)軍の第三陣の大将でしたが、突然、味方を裏切って大村側を攻撃したため、大村側は敗北してしまいました。

 これにより、道意は岩松城から内倉に隠居を命ぜられ、囚人
(しゅうじん)の日々を送ったといわれています。(鈴田小学校創立百周年記念誌より)

 この地に道意が起居していた「大屋敷」(一帯を内倉城とも言う)があり、下手の「小屋敷」(伴侍が柱んでいた)へ通じろ坂道は、「囚人坂
(しゅうじんさか)」と呼ばれています。

 また大屋敷の後ろに、籠
(こも)り屋敷(護衛の侍がこもっていた)がありました。そしマ、その後方には「道さま」と呼ばれる石の祠(ほこら)があり、文政年間に、土地の人々が供養したものと伝えられています。(地元の伝承より)

 平成三十一年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」  >



補足


  (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


(初回掲載日:2019年4月17日、第2次掲載日:4月19日、第3次掲載日:4月20日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日) 


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