(史跡案内標柱・説明板)鈴田道意の墓
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名称:鈴田道意の墓 |
様式:説明板、案内標柱、 |
場所:大村市大里町 |
設置者:大村市教育委員会 |
設置年:説明板は2009年1月、門柱は2003年3月 |
GPS実測値:32度52分36.85秒 129度59分52.19秒 |
説明版全体の大きさ:高さ173cm、横幅66cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
説明版本体の大きさ:高さ46cm、横幅66cm |
グーグルアース用数値:32°52'36.85"N,129°59'52.19"E |
注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差もある。グーグルアースは航空写真上に表示するため若干の誤差もあるが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)
史跡説明板と標柱写真周辺の説明
右側1番目写真を、ご覧願います。ここの町墓は、南北約30m、東西約15mの広さです。鈴田道意の墓は、町墓のほぼ中央部にあります。写真中央部にあるのが、鈴田道意の墓です。写真でもお分かりの通り、墓の上には屋根があります。
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中央部の自然石が鈴田道意の墓 (右端側が、その史跡説明板) |
鈴田道意の墓は、やや細長い形状ながら落ち着きがあって、風格さえ漂う自然石です。この写真では見えていませんが、墓石の中央部には文字が彫ってあります。(この碑文は後の項目で紹介予定)
また、写真右端側にあって2本のステンレスパイプの上部に白く見えているのが、史跡説明板です。あと、分かりにくいですが、墓石から直ぐ奥側左の方に、立派な御影石が見えています。これが大村市の指定史跡に、鈴田道意の墓が指定されたことを示す史蹟標柱です。
順序が後先になりましたが、大村市街地から、この内倉地域の町墓周辺へ行くには、国道34号線から市道を走行し、そして高速道路(長崎自動車道)のガードをくぐります。さらに高速道路の側道を南側方向へ進んで行くと、写真には写っていませんが、この墓から約10数m右方向にある市道の脇に着きます。
そこから、ほんの少し登ると、この屋根付きの墓には直ぐ到着します。ここから東西南北を見ますと、北・東・西面が道路と田畑で、南面が写真奥側のような空き地みたいになっています。
史跡説明板の内容
右側2と3番目写真に写っている史跡説明板には、下記「 」内の文章が書いてあります。なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに変えています。今回の説明板には、英語での紹介文もありましたので掲載しています。また、一部、改行を変えたり、送り仮名の位置を漢字後方の( )内していますが、それ以外は原文通りです。
なお、史跡説明板や史跡門柱には。「伝鈴田道意の墓」と書いてありますが、文字の頭にある「伝」は、(地域での)「伝承(言い伝え)」という意味と思われます。それと、私の推測ですが墓碑に戒名だけ彫ってあって、俗名(本名)がないので、断定的に言えないこともあろうかと思われます。
江戸時代の大村藩が、創作(偽装)した内容もあり
なお、先に掲載中の鈴田道意館跡ページにも同様のことを書いていますが、下記にも例えば「大村家十五代」、「十六代純伊」、「文明六年」、「中岳合戦」などの大村氏系図(代数自体も)や「大村純伊」伝説などの記述がしてあります。これらは、史実も年代的にも合わない、江戸時代の大村藩が、創作(偽装)した内容とも言われていています。そのため、充分な注意が必要です。
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左側が鈴田道意の墓、右上側が史跡説明板 |
また、鈴田道意が「大村純伊」を一度裏切って、後で許されて、また大村家に仕えたみたいにも書いてありますが、この内容も創作(偽装)と思われます。
いずれにしても、鈴田道意は謎の多い人物で、今となっては、どの事項が正しくて、逆に何が間違っているのか分からない状態です。
「 市指定史跡 伝鈴田道意(どうい)の墓
鈴田道意は戦国時代初期の武将で、越前守純種と称し、大村家十五代純治・十六代純伊に仕え、鈴田村(現在の鈴田地区)一帯を治めていました。純治の娘を妻にしており、純伊の義兄にあたります。
道意は大村家の重臣でしたが、大村家の史料によると、文明六年(一四七四)に島原の有馬貴純が大村に攻め込んだ際(「中岳合戦」)有馬側に寝返り、大村勢を攻撃しました。
このため大村勢は敗北し、純伊は領地を失い数年間の亡命生活を送りますが、文明十二年 (一四八〇)に純伊が旧領復活のために戦いを起こすと、 道意は有馬側の武将を討って大村側に降り、純伊に許され大村家の武将に復帰したと伝えられます。
この墓は、昔から地元で鈴田道意の墓として伝承されています。墓石には「蘭江道阿居士」と刻まれています。大村で現存する数少ない戦国武将の墓のひとつです。
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鈴田道意の墓の史跡説明板 |
平成二十一年一月 大村市教育委員会 」
英語説明文の内容
下記が鈴田道意の墓の英語説明文です。この英字による紹介文は、右側3番目写真でもお分かりの通り、向かって左下側に書いてあります。上記日本語説明文と違って簡略化されていますが、かえって分かりやすい内容となっているようです。和訳とか注釈などはしていませんので、上記の日本語説明文と併せて、ご覧願います。
Legend:Grave of Suzuta Doi
It is said that this grave is Suzuta Doi's, a general in the warring states period.
Doi was a chief retainer of the Omura clan.
This is one of the few remaining warring states period grave in Omura, and it has been designated a city monument.
指定史跡標柱の内容
鈴田道意の墓正面(西側)から見れば左側(北側)直ぐ脇に、立派な御影石の角柱が立っています。(このページ4番目写真です。ただし、3方向から撮った合成写真で、各々、縮尺比率が違いますので、あくまでもご参考程度に、ご覧願います)
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鈴田道意の墓の指定史跡標柱(合成写真) |
これは、大村市の指定史跡に、鈴田道意の墓が指定されたことを示す史蹟門柱です。彫られている文字は、4番目写真でもお分かりになるかと思われますが、下記に原文縦書きを横書きに直して、改行も変えて書いています。
正面(西側):市指定史跡 伝 鈴田道意の墓
右面(南側):指定 平成十三年五月一日 大村市教育委員会
左面(北側):建設 平成十五年二月 大村市教育委員会
上の行でもお分かりの通り、指定されたのは2001年(平成13年)5月1日です。「大村市内の指定文化財一覧」ページにある指定史跡の中では、比較的に新しい指定史跡とも言えます。
また、先の項目にも書いていますが、鈴田道意の墓文字の頭にある「伝」は、(地域での)「伝承(言い伝え)」という意味と思われます。
(なお、今回、この史跡標柱の高さ、横幅などを計測していませんでしたので、いずれの機会に調査後、その点は追加、改訂したいと考えています。
補足
(この原稿は準備中。しばらくお待ちください)
・詳細な関係ページ:『鈴田道意の館跡』
(初回掲載日:2015年5月23日、第2次掲載日:5月25日、第3次掲載日:5月29日、第4次掲載日5月30日、第4次掲載日5月 日、第4次掲載日5月 日)