1)鈴田道意館跡を紹介するにあたって
この鈴田道意館跡について記述されているのは、『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)123ページと、『大村市立鈴田小学校 創立百周年記念誌』(1973年3月20日、創立百周年記念誌編集委員会)120ページです。
『大村市の文化財』の方には、鈴田道意館跡との題名で、写真付き1ページで紹介してあります。このことについては、後の項目で紹介しますが、写真(初版本の発行された当時=1990年)は、現在のようにビニールハウスやアンテナなどがなかった時に撮影されているので、館跡の周囲が畑や空き地のままだったので、全体が確認できるものです。
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鈴田道意館跡(写真中央:ビニールハウスの畑と、その周辺の空き地など。左側に見えるのが高速道路の長崎自動車道) (ヤフー地図の航空写真より) |
また、『大村市立鈴田小学校 創立百周年記念誌』の方は、鈴田道意館跡の隠宅のことの題字で1ページ弱の文章で写真はありません。これも、後の項目で全文は紹介します。この本は、上記の『大村市の文化財』と同じ内容もありますが、地元で伝わってきた関係用語や、その解説を具体的に書いてありますので、大変分かりやすいです。
江戸時代の大村藩が、創作(偽装)した内容もあり
ただし、両誌とも例えば「文明年間の戦」とか「大村純伊」伝説などの記述がしてあります。これらは、江戸時代の大村藩が、創作(偽装)した内容とも言われていて充分な注意が必要です。また、鈴田道意が「大村純伊」を一度裏切って、後で許されて、また大村家に仕えたみたいにも書いてありますが、この内容も創作(偽装)と思われます。
いずれにしても、鈴田道意は謎の多い人物で、今となっては、どの事項が正しくて、逆に何が間違っているのか分からない状態です。館跡の場所自体については、伝承をもとに両誌とも書いてあるのではないかと推測しています。
写真の説明
右側1番目写真は、(2015年)現在のヤフー地図の航空写真です。写真中央部に細長く白く光って見えるのが、ビニールハウスのある畑です。そして、その右側や下側に空き地のように見えています。さらに、これらの周囲を山林が取り囲むようにあります。(写真左側に片側2車線や中央分離帯などが見えていますが、これは高速道路の長崎自動車道です)
鈴田道意館跡=大屋敷は、正確には分かっていないようですが、先に述べた畑や空き地含めた周辺の場所を指しているようです。いずれにしても、戦国時代以降、この周辺は様々な変遷(へんせん)があったでしょうから、正確に館跡を特定するのは難しいと言えます。
右側2番目写真は、『大村市の文化財』(初版本、1990年3月31日、大村市教育委員会)の121ページから複写したものです。この写真は、『大村市の文化財』の出版される以前に撮られたものです。この当時、手前側にビニールハウスもなく、また畑そのままの状態ですので、その広さや周囲の石垣も分かりやすいものです。
2)書籍類の鈴田道意館跡についての記述
この項目では、二つの書籍を紹介します。それは、下記の通り、『大村市の文化財』と、『大村市立鈴田小学校 創立百周年記念誌』です。 <注意:先の項目にも書いていますが、両誌の内容とも、江戸時代の大村藩が創作(偽装)した内容も多く、充分な注意が必要です。そのことは、ご了承の上、閲覧をお願いします>
『大村市の文化財』にある「鈴田道意館跡」の記述内容
次の<>内の通りです。ただし、ホームページ上、若干、改行その他を変えていますので、引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。
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鈴田道意館跡(『大村市の文化財』、1990年3月31日、大村市教育委員会、121ページ写真より) |
< 鈴田道意館跡
鈴田道意館跡は、内倉川に沿ってのぼり、高速道路の東側で、大屋敷と呼ばれる所です。この付近には山屋敷・小屋敷という地名も残っています。
鈴田道意は、越前守純種と称し、道意というのは号で、大村純治に仕え、純治の娘を妻とし、鈴田村を治めていました。また、道意は純治が亡くなった後、その子である純伊の幼年の頃、親代わり役をつとめました。
文明6年(1474)島原の有馬貴純が大村領に攻めて来た時、道意は純伊軍の第三陣の大将でしたが、突然味方を裏切って大村側を攻撃したため、大村は敗北し、純伊は加々良島に逃れたといわれます。
その後、文明12年(1480)純伊は大村領を取り戻すため、彼杵の島田の浜に上陸し有馬側を攻撃しました。この時、道意は中岳合戦の時を後悔し、有馬の武将を討ち、大村側へ降り、純伊に面会を許されました。
鈴田道意の墓は、館跡の近くで、山屋敷と呼ばれる所へ行く道の側に、一群の墓石の中にあります。墓石に「蘭江道阿居士」と記されています。 >
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鈴田道意館跡関係写真(A:大屋敷、B:小屋敷、C:墓) (ヤフー地図の航空写真より) |
『大村市立鈴田小学校 創立百周年記念誌』にある「大屋敷」の記述内容
『大村市立鈴田小学校 創立百周年記念誌』(1973年3月20日、創立百周年記念誌編集委員会)120ページの「十 史蹟・旧蹟」の項目には、次の< >内のことが書いてあります。ただし、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、また若干、改行その他を変えていますので、引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。なお、太文字や注1〜注4は、上野が付けました。
< 鈴田道意の隠宅のこと
文明六年十二月、藩主大村純伊公は、肥前高来城主肥前守有馬貴純と、萱瀬村鳥甲山にお いて激戦し、味方の兵千三百十名余、敵は西郷対馬守政尭(諌早領主)外の軍勢二千名余、?(注1)流川を中に死闘を繰返した。
その戦に反旗を翻して、味方軍勢長岡越前守父子の率いる軍が疲れを見せたのを見計って鯨波(とき)をつくって、攻 め込み長岡父子百五十名は枕を並べて対死し、味方は敗退した。この為に岩松城主鈴田道意は内倉に隠居を命ぜられ、 囚人の日々を送ったといわれる。
今、内倉に、小屋敷=F氏宅(注2)があり、此処に鈴田道意の伴侍が起居したものと思われる。又、大屋敷=K氏宅(注3)があり、その附近一帯を内倉城とも言われ、小段を積み上げた独特な築城であるという。此処に道意が起居していたものと思われる。
なお、この大屋敷から小屋敷を通ずる堀り切りの坂道を、
囚人坂(しゅうじんざか)=と呼ばれる。この坂を通ったものと思われるし、大屋敷の後方に、
籠(こも)り屋敷=と呼ばれる処あり、護衛の侍が籠っていたので、このように呼ばれた事と思われる。
その外、籠り屋敷の後の山中に、「道(どう)さま」(注4)と呼ばれる石の祠あり、文政年間に土地の人々が供養したものらしい。 >
注1:?文字は、さんずい編に「伊」の文字で、3文字全体では川の名称である。
注2:原本にはフルネームで個人宅名が書いてあるが、イニシャルに変えた。
注3:同上。なお、この方は引っ越しされ、現在、この場所に個人宅はない。
注4:この「道様」は鈴田道意の館跡の後方(上側の東)方向に石祠がある。。
右側細長い写真説明
右側3番目(縦長)写真は、大村市、内倉の一部の集落と高速道路(長崎自動車)の写っているヤフー地図(航空写真)からです。赤い文字A、B、Cは、上野が付け、説明と注釈は下記の通りです
A=大屋敷(現在、個人宅はなく、ビニールハウスのある畑、空き地、石垣、山林などがある)(なお、大屋敷の読みは共通語ながらば「おおやしき」だが、地元(大村弁)では「ううやしき」と呼ばれている)
B=小屋敷(現在も個人宅がある)
C=鈴田道意の墓(墓の横に大村市教育委員会設置の史跡説明板などがある)
A〜Bの坂道=囚人坂
補足
私は、2015年5月現在で、この鈴田道意館跡や鈴田道意館の墓周辺は、5回ほど調査に出向き、地元の方にも話をお聞きしました。ただし、先の項目で紹介しています例えば『大村市の文化財』や『大村市立鈴田小学校 創立百周年記念誌』などの書籍類に、かなりの史跡情報が書いてあるにも関わらず、充分調べきれませんでした。
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中央部の自然石が鈴田道意の墓 (右端側が史跡説明板) |
あと、このページに何回も書きましたが、鈴田道意そのものの伝記については、「文明年間の戦」、「大村純伊」伝説、一度大村家を裏切って後で再度仕えたみたいなことが書いてあります。
しかし、これらは江戸時代・大村藩の創作(偽装)の歴史と思われます。特に、「大村純伊」伝説などは、年代も史実とも合わない事項さえ書いてありますので、充分注意が必要です。
ただし、(地元)伝承で残っています鈴田道意館の墓をはじめ、大屋敷、小屋敷などは、現在地の変化はあるものの場所(位置)そのものは各書籍類に書いてある通りのようです。実際このページで紹介中の右側全部の写真通り、各史跡名称の場所は現存しています。
道(どう)さま
(この項目は2015年当時に地元の方から教えて頂いた内容と、2020年5月時点に「チーム鈴田」の方からのご指摘内容と違っていたので、今回次からの3行ほどを全部改訂したものです)
鈴田地区「チーム鈴田」設置の史跡説明板「鈴田道意館跡」の記述内容によりますと、道(どう)さまと呼ばれる石の祠(ほこら)があります。それは、この鈴田道意館跡の後方<(上側の東)方向>にあります。その石祠は、「文政年間に建立され、その後、土地の人々が供養してきた」と伝えられています。