大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 相撲取り墓(すもうとり はか) |
まず、この相撲取り墓へ行く場合ですが、JR大村線・松原駅からならば海岸(大村湾)方向へ約50m所に墓地があります。その墓地を今度は、市道(旧・長崎街道)を北北東へ約60m進みますと、この3基の墓の前に着きます。
(写真1と2)の通り、3基の相撲取り墓とも大きな自然石の墓碑です。また、同じ墓地にある他の墓(近代・現代的な加工した四角形の石柱墓碑が多い)とは、その大きさも形状も違い、大変目立っていますので直ぐに分かります。 なお、(写真1と2)の説明文通り、この墓碑の背面側から約35mの所が大村湾(海岸や堤防)です。正面側が、旧・長崎街道=現・市道です。(写真2)が分かりやすいですが、3基の墓碑とも市道に沿って真横に並んであります。 あと、この3力士のご子孫がいらっしゃるのか、どうか上野は調べきれませんでした。しかし、墓碑の前の花や、手入れ状況などからして、地元の方々が掃除や供養され、大事に祀っておられることも分かります。 史跡説明板の内容 < 相撲取り墓 この三基の自然石の墓は、相撲取りの墓です。墓石には「大荒鷲岩」、「秀の川」などのしこ名が刻まれています。いずれも江戸時代後期のものです。 残念ながらどのような活躍をした力士かは分かっていません。 令和三年三月三十一日 松原宿活性化協議会 > 注:既に掲載中の各史跡説明板(もくじ)で、その内容中に例えば江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの記述や、近代、現代でも難しい用語があれば、その解説も含めて書いている場合もあります。 しかし、今回は(写真3)や上記の横書き内容でも、お分かりの通り、大変分かりやすい文章なので、補注その他は今回書いていません。 まず、上記の(写真1と2)を参照願います。この写真左側に一番背の高い墓石(自然石)があります。(なお、ご参考までに、中央は供養塔で、その右側は相撲取り「秀の川」の墓碑である。) 次に、(写真3)の「相撲取り墓の史跡説明板」を参照願います。この説明板には、先の左側墓碑の説明文で、「大荒鷲岩」と書いてあります。 しかし、(写真4)に写る碑文を見ると、「大荒鷲山」となっています。つまり、一文字違いながら、「岩」と「山」の文字が違うのです。 この史跡=相撲取りの墓碑ですから、史跡説明文としては、正しくは、「大荒鷲山」です。 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ: (初回掲載日:2021年3月16日、第2次掲載日:3月22日、第3次掲載日:3月28日、第4次掲載日: 2024年9月24日、第6次掲載日: 月 日) |
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