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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 相撲取り墓(すもうとり はか)

(史跡説明板)相撲取り墓(すもうとり はか) 
 名称:相撲取り墓  様式:説明板
 場所:大村市松原本町(墓地内)  設置者:松原地区活性化協議会
 設置年:2021年3月21日(令和2年3月31日)  GPS実測値:32度58分42.85秒 129度56分43.63秒
 全体の大きさ:高さ150cm、横幅60cm  国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅60cm  グーグルアース用数値:32°58'42.85"N,129°56'43.63"E
(写真1) 左側の白板が相撲取り墓史跡説明板(奥は大村湾) (写真2) 中央部が説明板、手前側は旧・長崎街道
史跡説明板写真周辺の説明
まず、この相撲取り墓へ行く場合ですが、JR大村線・松原駅からならば海岸(大村湾)方向へ約50m所に墓地があります。その墓地を今度は、市道(旧・長崎街道)を北北東へ約60m進みますと、この3基の墓の前に着きます。

(写真1) 左側の白板が相撲取り墓史跡説明板(奥は大村湾)
 逆に、北側にある鹿島(しかのしま)から先と同じ道路を南側へ行きますと、変配川(へんぱいかわ)に架かる変配橋から約60mの所にあります。

 (写真1と2)の通り、3基の相撲取り墓とも大きな自然石の墓碑です。また、同じ墓地にある他の墓(近代・現代的な加工した四角形の石柱墓碑が多い)とは、その大きさも形状も違い、大変目立っていますので直ぐに分かります。

 なお、(写真1と2)の説明文通り、この墓碑の背面側から約35mの所が大村湾(海岸や堤防)です。正面側が、旧・長崎街道=現・市道です。(写真2)が分かりやすいですが、3基の墓碑とも市道に沿って真横に並んであります。

 あと、この3力士のご子孫がいらっしゃるのか、どうか上野は調べきれませんでした。しかし、墓碑の前の花や、手入れ状況などからして、地元の方々が掃除や供養され、大事に祀っておられることも分かります。

史跡説明板の内容
 このページ(写真1)の手前左側と、(写真2)の中央部に白く写っています相撲取り墓の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。先の説明板を拡大したのが、右側の(写真3)です。

(写真3) 松原本町、相撲取り墓史跡説明板(本体部)
 なお、(写真3)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

  相撲取り墓
 この三基の自然石の墓は、相撲取りの墓です。墓石には「大荒鷲岩」、「秀の川」などのしこ名が刻まれています。いずれも江戸時代後期のものです。

 残念ながらどのような活躍をした力士かは分かっていません。

 令和三年三月三十一日
 松原宿活性化協議会 


 注:既に掲載中の各史跡説明板(もくじ)で、その内容中に例えば江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの記述や、近代、現代でも難しい用語があれば、その解説も含めて書いている場合もあります。

 しかし、今回は(写真3)や上記の横書き内容でも、お分かりの通り、大変分かりやすい文章なので、補注その他は今回書いていません。

(写真4) 「大荒鷲山」の墓(本体部)
大荒鷲山の墓碑について
 まず、上記の(写真1と2)を参照願います。この写真左側に一番背の高い墓石(自然石)があります。(なお、ご参考までに、中央は供養塔で、その右側は相撲取り「秀の川」の墓碑である。) 

 次に、(写真3)の「相撲取り墓史跡説明板」を参照願います。この説明板には、先の左側墓碑の説明文で、「大荒鷲岩」と書いてあります。 しかし、(写真4)に写る碑文を見ると、「大荒鷲山」となっています。つまり、一文字違いながら、「岩」と「」の文字が違うのです。

 この史跡=相撲取りの墓碑ですから、史跡説明文としては、正しくは、「大荒鷲山」です。

補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



・関係ページ:
(初回掲載日:2021年3月16日、第2次掲載日:3月22日、第3次掲載日:3月28日、第4次掲載日: 2024年9月24日、第6次掲載日: 月 日) 


大村の史跡説明板・案内板シリーズ(もくじ)
「大村の歴史」シリーズ(もくじ)

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