福重の名所旧跡や地形
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野田辻堤(野田町)
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野田辻堤(のだのつじ つつみ) | 場所:長崎県大村市 野田町 |
この堤=ため池のある場所は、野田公民館から北西方向へ40m弱行った所にある。築堤の年代は、不明である。現在も稲作などに使われている。 基礎的資料が(大村)郷村記の記述内容しかないため、ため池の大きさや耕作地面積などを除き、それ以外の事柄が分かっていない。 (左側写真が野田辻堤。2004年3月7日、南西側から撮影) |
概要紹介 この野田辻堤(のだのつじ つつみ)の築堤年については、不明です。しかし、江戸時代後期に編さんされた(大村)郷村記に、その名称や大きさが記述されていることから、この年代よりは早く築堤されたと推測されます。 名称の野田辻堤の「辻(つじ)」は、広辞苑には「道路が十字形に交叉している所」と解説されています。 このため池近くの野田公民館横の道路(昔は里道だった)が、東西・南北と交差した所にあります。また、野田町の背骨みたいな尾根伝いが笠山から今富町の平野部近くまで伸びています。その尾根の上に公民館、民家や平坦な田畑がありますが、この堤周辺をあだ名として「辻の花(つじのはな)」とも町民は呼称されてきました。ここでの意味は、「(十字路周辺の)小高い所」と解釈されるでしょう。
堤の大きさについてですが、本ページ掲載の左側と右側写真でもお分かりの通り、木が山側に茂っているため分かりにくく、グーグルアースなどの空中写真でも堤全体が見にくい状況があります。そのため、かなり大雑把な目測ですが、南北間が約20m、東西間約10mほどに見えます。 ただし、後の項目の(大村)郷村記の大きさと、上記の目測と、少し違うようです。なぜ、その違いがあるのか、理由は今のところ分かりません。なお、この堤全体の造り自体は、築堤当時も現在も、大きな変化はないようです。いずれにしても、近代現代とも基礎的なデータもないようなので、(大村)郷村記内容より詳細なことは、分かりにくい状況です。 (大村)郷村記の記述内容 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) ・現代語訳 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 関係ホームページ:
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