伽藍堂の概要紹介
この沖田町にある伽藍堂は、大村郷村記・第二巻(活字版78ページ)の記述と同じ伽藍堂と推測されます。なぜ、このような書き方をしているかと言いますと、実は元々、江戸時代にあった場所から現在地まで何回か引っ越している可能性があるからです。地元伝承で、しかも近代だけでも最低1回は、郡川堤防沿い周辺で引っ越しがあったようです。現在地の前は、堤防上の道路を挟んで反対側にある大きな木の周辺だったと言われています。
この伽藍堂について特定の所有者(管理者)は、現在は不明ですが、地元でたまに祀られたのか、現在でも茶碗などがあり整理された状態です。ここの敷地は、奥行約80cm、横幅約240 cm、石垣の高さ約60cm、全体高約100cmです。祀られている神体・石仏は、横一列の7体(全て自然石)です。その内1体の大きさは、高さ約37cm、横幅約30cm 、胴囲約80cmです。あとは、大小様々あります。
<参考資料、国語辞典の大辞泉より>「伽藍堂(がらんどう)=寺院で、伽藍神を祭ってある堂」 、 「伽藍神(がらんしん)=寺院を守護する神。興福寺の春日明神、延暦寺の山王権現など。寺神」
大村郷村記の記述内容
大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)の第二巻、134ページには、下記の太文字通りです。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、全文続けますと読みにくくなりますので、上野の方で文章の区切りと思えるところなどにスペース(空白)などもしています。あくまでも、下記はご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。
一伽藍堂 福重村江崎川原と云所に伽藍堂と申て弐拾八歩程の藪の中に小石にて塚のよふなる形ちあり 何の比伽藍ありしにや由緒知れす 此地支配するものなし
・現代語訳
上記の大村郷村記部分を現代語訳をすると、下記の<>内の通りと思われます。ただし、この現代語訳は、あくまでも素人訳ですので、参考程度に、ご覧願います。
< 伽藍堂 福重村江崎川原と言う所に伽藍堂と呼んで6.4uほどの藪の中に小石を使って塚のような形がある。何故ここに伽藍堂があるのか、その由緒は知られていないし、所有者もいない。 >
まとめ
この伽藍堂について、先の項目に書いてます通り、大村郷村記の記述や地元伝承からして、あまりにも情報が少なく、「良く分からなかった」と言うのが、2012年10月現在の状況です。今後、何か新たな事柄が分かれば補足含めて追加していきたいと考えています。
あと、大村郷村記にある伽藍堂の所在地である「福重村江崎川原」と言う字(あざ、地名)についてです。この地名は、(大村)郷村記が編纂された江戸時代にはあったのかもしれませんが、(大村)郷村記以前に作成されたと思われる大村藩領絵図や近代の字図にもないようです。また、私の聞いた範囲内で地元の方も「”江崎川原”と言う場所は知らないし、このような字は聞いたことがないなあ」とのことでした。
ここからは私の推測ですが、この伽藍堂は現在、郡川堤防沿いにありますが、創建当初にはこの周辺ではなかったと思われます。例えば、どこかの寺近くに創建された伽藍堂を現在地周辺に運んで来たと言う仮説です。ただし、 沖田町は周辺他町に比べ江戸時代以前に仏教寺院があったとの記録もないようですから、この説についても無理があるかもしれません。
従来にない形で、この伽藍堂についての記述は終りになりますが、いずれの機会に何かの情報を得て補足・改訂する場合もあると思いますので、その点含めてご了承願います。
(初回掲載日:2012年9月26日、第二次掲載日:2012年10月1日、第三次掲載日:2012年10月3日、第四次掲載日:2012年10月4日)
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