福重の名所旧跡や地形
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沖田踊りの踊り庭跡(沖田町)
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沖田踊の踊り庭跡(おどりにわ、おどんにわ あと) | 場所:長崎県大村市 沖田町 |
この『沖田踊の踊り跡(おどりにわ、おどんにわ あと)』の所在地は、大村市沖田町の沖田さん宅の庭です。地元では、大村弁で「おどんにわ」と呼称されています。 このことについては、江戸時代の古記録(大村)郷村記などに記述はなくて、長年の地元伝承からです。 (左写真は、現在の”踊り庭跡”と沖田氏の本宅) |
沖田踊の概要紹介 沖田踊は、国の無形民俗文化財になっています。寿古踊、沖田踊、黒丸踊を総称して郡三踊り(三踊りとも旧・郡村=現・郡地区にあるから)とも呼ばれたきました。この踊りを教えたのは、戦国時代の法養と言われています。なお、踊りの起源は、500年以上ではあるのですが、従来からある「大村純伊の戦勝祝い踊り説」でないとも言われています。 なぜなら、史実上、「大村純伊」の存在それ自体に疑問説があり、仮にいたとしても従来説の年代が、違い過ぎるからです。この歴史の詳細は、既に掲載中の「大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について」と、「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”」を参照願います。 沖田踊は、円陣を作って,太刀とナギナタが向い合って踊る形は,県内はもちろん九州でも見かけない踊りです。別名、「ナギナタ踊り(長刀踊り)」とも言われています。 歌詞は艶麗(えんれい)な恋歌で歌い方は悠長(ゆうちょう)です。武術の型を踊りに構成したと見られ,激しさを内に秘めながらも,優美な踊りを展開します。踊りに山場のないことは、見せる芸への変貌がなかったことを推量させ、古雅な型を留めるすぐれた芸能です。 あと、現在、踊りの練習は毎年のことながら、主に3年ごとに、大村の花まつり、秋祭りなどに出演されています。 踊り練習場の変遷について (注:この項目は古記録がないため上野の推測で書いている) 約500年前に始まった沖田踊の練習場(稽古場)は、当時どこだったか不明です。また、今回紹介の沖田踊の「踊り庭」が、いつから使われ、いつ終了したかも定かではありません。いずれにしても、昔(江戸時代頃)から長期間、この「踊り庭」が使われていたのでしょう。(右下側写真は、現在の”踊り庭跡”と、左側は沖田氏の本宅) あと、この庭だけでなく、近代になり、踊る人が多く居住している地域別の変遷もあったことでしょう。例えば、下沖田地域に人が多い時には今回の「踊り庭」で、、逆に桑原地域に居住者が多い時などは、現在の公民館周辺とかです。 そして、次に書く沖田公民館ができた頃から、この敷地内あるいは公民館内で踊りの練習がされて、現在に至っていることは、明白でしょう。その沖田公民館は戦前戦後頃には既にあり、その後、何十年後かに大幅に新増改築されました。現在の沖田公民館の大広間(板張り)は、踊りの練習ができるように小学校の教室の1.5倍くらい広いです。通常は、ここで練習(稽古)をされています。 「踊り庭跡」での練習時間の推測など 沖田踊(寿古踊、黒丸踊も含めて郡三踊り)は、500年以上も前に踊りができた当初から戦前戦後頃まで大人の男性の踊りでした。それも歌舞伎の役者と同じみたいに、その踊り役割が、その家の長男で受け継がれ、代々伝えてきた歴史があります。ただし、現在は町内の子ども達が中心です。 (ここからは上野の推測である) 昔、沖田郷(町)は、ほとんど農家でした。そのため、この踊りの練習は、農繁期の忙しい時季は、不可能だったのではないでしょうか。そして、例えば明治以前当時は当然、電灯みたいな明るい照明もない(あったても提灯か)ので、日暮れの速い秋冬は難しく、夏季の田植えなどが一段落した夕方か、コメの収穫が終わった秋冬の農閑期ならば昼間に練習したのではないかと想像されます。 あと、沖田氏の庭は、練習する場合、下沖田からも桑原地域からも、沖田郷(町)内のほぼ中間に位置しているので集合しやすかったのではないかとも思われます。 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) (掲載日:2018年2月8日、第二次掲載日:2月11日、第三次掲載日:2月19日、第四次掲載日:2月20日、第五次掲載日: 月 日) |