郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”
長崎県大村市の
郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)<注:1>は、500年以上続く伝統の郷土芸能です。これらを守っておられる各保存会のご努力は並大抵ではないと聞いております。今回その郡三踊りについて、寿古町の増元さんが民俗学のある大学教授(日本の民俗、日本の祭礼と芸能、東洋の文化担当)に聞かれた話をこのページではまとめています。
2000年11月におこなわれた大村の祭りの時に、教授は実際に踊りを見学し、資料などを、ご覧になりました。その時に述べられた感想などは、以下の通りですが、まず、結論から先に書きます。
「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は、戦勝踊りではなく、神事芸能踊り<注:2>である」
<注1:まず、郡の名称の由来です。大村市の松原、福重、竹松地域は奈良時代からあった肥前国の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)の郡(こおり)から由来して、江戸時代まで郡村とずっと呼ばれ、そのまま今でも松原、福重、竹松地区を総合して郡地区と言います。寿古踊(寿古町)と沖田踊(沖田町)が福重地区で、黒丸踊(黒丸町)が竹松地区です。そのため踊りの名前も総称して、郡の三踊りと古くから呼称されてきました。また、この郡三踊りは、三つで一つの踊りとも言われ、江戸時代から踊る順番も決まっていました>
<注2:神事芸能踊りとは、分かりやすく表現すると、神社に奉納するような踊りです。一例:長崎くんちでは、各踊りが諏訪神社に奉納されています>
寿古踊を見ての感想(神様に捧げる神事、儀式について)
・顔を隠して踊る姿は、神事そのものである。
・ゴザ一枚敷くのは神様の依り代(よりしろ)で、神様がここに降りてくることを意味している。(注:依り代とは、神霊が寄りつくところである)
(補足その1:なお、寿古踊保存会のお話によると昔から、この踊りを踊る方へは、次のような申し送りがあると言う。「このゴザから一歩も踏み外してはいけない」、「太鼓を叩くバチが落ちても拾ってはいけない。その時は、持っている扇子(または予備のバチ)で演技しなさい」)
(補足その2:このような注意や決まりごとは、なぜあるのか。それは、この寿古踊が神事そのものに由来しているから。戦勝踊りならば本来自由なはずだから、こんな神事のような厳格な決まりごとはないはず)
・寿古踊の時、女性の方が日傘を持っておられるが、その日傘には飾りがついている。これは先祖の供養と言う意味がある。(注:寿古踊保存会によると服装も着物と決まっているとのこと)
・沖田踊の長刀(なぎなた)や傘鉾(かさぼこ)、あるいは黒丸踊の花篭(はなかご)や竹竿(たけざお)など、空に向かって立てるものは、神様に捧げる神事である。
以上、大村での滞在や踊りの鑑賞そのものも短時間にも関わらず、即座に「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は、戦勝踊りではなく、神事芸能踊りである」と、断定されたとのことです。
つまり、現在でも大村市で採用されている「大村純伊」の領地回復=戦勝踊り説は、歴史上からも、これら踊りの民俗学的見地からもありえないと言うことです。
このページは、民俗学の郷土芸能の視点で書いていますので、歴史事項の詳細は避けますが、郡三踊りは「大村純伊」とは関係ない時期に、既に、この地域にあった郷土芸能を、お殿様を偉大な人物に見せるかけるための”箔付け”に使ったのではないかと本に書いておられる歴史学者さんがおられることも記しておきます。
(これら虚構の「大村純伊」説の歴史事項は、別途掲載中の『虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還』をご覧願います)
なお、郡三踊りは、室町時代に中国浪人の法養が「大村純伊」とは全く関係ない時期に佐賀の須古村から来て、郡村の人に踊りを教えたことは史実と言えます。
最後になりますが、このページとは別に後で『大村の郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について』と言うタイトルで、この踊りを教えた法養、歴史上の出来事や背景など含めて詳細ご紹介しています。また、そのページをご覧の時には、今回のページも併せてご参照下さい。
(掲載日:2006年12月10日、一部改訂:2016年2月20日