大村の歴史
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大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について
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主 な 内 容 |
状 況 |
はじめに | |
<1>この説のまとめ(総論) | |
<2>踊りを教えた法養について |
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<3>この説の具体論 |
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1)大村の郡三踊は「戦勝踊り」ではなく、神事芸能踊りである |
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2)踊りを教えたのは従来説と同じ、法養である |
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3)踊りの起源は応仁の乱の頃か、その後と思われる |
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4)踊りの習得期間は長年かけて教えたものと思われる |
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5)踊りの起源の従来説は1980年代には公式にも否定されていた | |
<4>伝統芸能五百年の歴史は、それだけでも光彩を放ち感動を与えている |
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あとがき |
大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について
はじめに このページは、長崎県大村市の伝統・郷土芸能である寿古踊の起源、沖田踊の起源、黒丸踊の起源や由来について紹介しています。なお私は今回このページを掲載のため色々な郷土史の書籍類を調べ、また福重郷土史講座の講師(増元氏、大村市寿古町在住)からお聞きしたことを書いています。 長崎県大村市の郡地区(福重、竹松、松原)は、郷土芸能が盛んな地域です。その中でも、大村の郡三踊(こおりさんおどり)と呼ばれている寿古踊、沖田踊、黒丸踊は、国選択無形民俗文化財及び長崎県指定無形民俗文化財になっています。いずれも500年以上の伝統を誇り、地元の踊り保存会を始め町内の方々が熱心に努力され大事にしてこられた郷土芸能です。 この郡三踊りの起源やと踊りの様式について、従来から「大村純伊(すみこれ)」(注1)の戦勝踊り説(以降、「従来説」とも言う)や、またその説に対しての疑問説も以前の大村教育委員会発行の冊子などに公然と書かれてきました。しかし、近年発行されている大村市の本やホームページで書かれている内容は、ほぼ100%「従来説」です。でも、この「従来説」は偽りの「大村千年の歴史」表現(この件の詳細は別途『お殿様の偽装』ページを参照)と併せて、“大村の偽装の歴史の双璧”とも言える内容です。 私は、冒頭書きました通り大村の郷土史の書籍類を調べ、地元の方のお話を聞く中で、郡三踊の起源や様式について、今回「従来説」と違う<「大村純伊」とは関係のない(時期に)=「戦勝踊り」ではない神事芸能踊りである>説を持つに至りました。まずは、本論のまとめから先に、その後で具体論を記述していますので、ご一読して頂ければ嬉しい限りです。 私からのお願いです。ご覧の通り色々と書いてはいますが、私の最も申し上げたいことは、最後の『<4>伝統芸能五百年の歴史は、それだけでも光彩を放ち感動を与えている』と言う項目です。 (注1:この「大村純伊」は、大村純治と同一人物と言われている。また今でも大村市で使われている「大村純伊」の「中岳合戦の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還」説も総て虚構と言われている。詳細は、<大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2(虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還)」>のページをご覧下さい) (内容の構成上、ホームページ上は総て同じページにして、上から、もくじ、本論、具体論などのレイアウトにしています。上記のもくじ表のリンク部分(掲載中)をクリックして頂ければ、ご覧になれます)(初回掲載日:2006年12月13日) |
<1>この説のまとめ(総論)
1)「従来説」と違い、この大村の郡三踊は「戦勝踊り」ではなく、もっと格式・格調の高い神事芸能踊り(注2)である。 (注2:神事芸能踊りとは、簡単に述べると神様(神社など)に奉納する踊りである。既に掲載中の『郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”』ページをご参照を) 2)踊りを教えたのは、「従来説」と同じ、法養である。 3)踊りの起源は、応仁の乱の頃(注3)もしくはその後(室町時代後期か戦国時代始めの頃)と思われ、それから五百数十年間継承されている。(注3:応仁の乱=応仁元年〜文明9年=1467年〜1477年) 4)踊りの習得時期について、「従来説」では「大村純伊」の戦勝時期に合わせて法養が教えたかのごとく言われて来たが、本当は法養が上記3)の頃に長年かけて当時郡村の地元民に教えた踊りと思われる。 5)踊りの起源の「従来説」は、1980年代以前から公式にも否定されていた。また、外山幹夫氏(当時、長崎大学教授)などの本や論文で、江戸時代の大村藩が作成した偽装であり、既にあった踊りを後でお殿様の箔付けに使ったものと明解に述べておられた。 (初回掲載日:2006年12月13日) |
<3>この説の具体論 ここれから最初に書いたこの説の総論(まとめ)<1)から6)>に至った内容の具体論を書きます。今回新たな記述もしています。また、できれば既に掲載中の「お殿様の偽装」の「虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還」ページ)と重複部分も一部分ありますので、そちらの方もご覧頂けないでしょうか。 |
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(この項目は、別途『郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は神事芸能踊り』もご覧下さい) 大村市寿古町在住の増元さんは、2000年11月におこなわれた大村祭りの時に、ある教授(日本の民俗、日本の祭礼と芸能、東洋の文化担当)に郡三踊りについて、民俗芸能学の視点で聞いておられました。 それによりますと教授は、郡三踊りの資料と上演中の踊りを一目見ただけで「郡三踊りは、戦勝踊りではなく神事芸能踊りである」と、即座に断定されました。このことの詳細は、この項の冒頭紹介しました『郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は神事芸能踊り』に書いていますが、いずれの踊りとも神様を呼ぶ、あるいは神様に奉納する様式(儀式)をしながら踊っているとのことです。そのための道具その他もそれを有しているとのことです。 例えば、寿古踊の時、ゴザ(=「御座むしろ」の略)を一枚敷くのは神様の依り代(よりしろ)で、神様がここに降りてくることを意味しています。また、各踊りの傘鉾(かさぼこ)、沖田踊の長刀(なぎなた)あるいは黒丸踊の花篭(はなかご)や竹竿(たけざお)など、空に向かって立てるものは、神様に捧げる神事であるとのことです。 また、上演時に飾りの付いた日傘を持って女性が立っておられます。この飾りの付いた日傘は、先祖供養を意味しているとのことです。さらに着る服装も和服と決まっています。(各踊りの道具は違いますので、根拠については別途『郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は神事芸能踊り』を参照) あと、踊り保存会の長年に渡る申し送りなどによると、色々な決まりごとがあり、それは厳格に守られているとのことです。なぜそのようになっているかについては、それも神様に捧げる儀式=踊りだから厳格なのです。戦勝踊りなら、おおらかな踊りがほとんどです。 大村藩主の御用踊りとなり城内のみ上演可能な踊りへと変遷したのでは 「郡三踊りを神事芸能とすると、じゃあ、どこの神社に奉納していたのか」と言う疑問を持たれるかもしれません。この点について、あくまでも私個人の推測ですが、当初は例祭などで近くの神社で踊られていたと思います。しかし、1574(天正2)年、度重なる宣教師からの要請を受けていた大村純忠がついに許可しキリシタンよる神社仏閣の焼き討ち、改宗しない領民の追放、僧侶阿乗などを殺害した歴史もありました。 この時、現在の大村市内だけでもキリシタンにより神社仏閣(合計41)を全部破壊、焼き討ち、略奪の限りを尽くしたと言われていますので、このキリシタン時代に神社に奉納するような形で各踊りは奉納されなかったと思われます。その後も踊り自体は継続され、しばらくして江戸時代に入り今度は大村藩主(お殿様)の御用踊りとなりました。 それは文化11(1814)年に大村藩領内の盆踊りなどは禁止されても、この郡三踊りだけは庇護され、しかも玖島城(大村城)のみで踊ることが本願とされてきた長い歴史があります。このことをより分かりやすく表現しますと「藩主の御用踊りだから踊るのを許可するが、城内以外の他の場所(神社など)では踊ってはならない」とも解釈できるものです。 つまり、当初法養が教えた頃(応仁の乱かその後頃)は神社への奉納、1574(天正2)年のキリシタンのよる神社の焼き討ち・破壊でその神社はなくなり、その後江戸時代になり大村藩主の御用踊りと言う変遷ですから、キリシタン時代が終わっても今度は復活した神社への奉納はできなくなったのではないかと言うのが私の推論です。 民俗芸能学上からも郡三踊りを正当な評価へ 以上の述べてきたこの項を再度まとめます。現在でも大村市が公式に発行・開設している書籍、ガイドブック、ホームページなどで展開しておられるのは、郡三踊りの起源=「大村純伊」の「戦勝祝い踊り説」です。しかし、この「戦勝」の歴史自体が、「お殿様の偽装」の「虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還」ページに詳細に書いた通り、江戸時代大村藩による誤用であり歴史の間違い記述です。 また、歴史の事実上のことだけではなく、郡三踊りを民俗芸能学の視点から大学教授の述べられたこと=「戦勝踊り説」ではなく神事芸能踊り説は、郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)を民俗芸能学からも正当に評価する意味で重要なことだと思われます。 (この項の一部、大村市教育委員会発行『大村市の文化財』を参照しました)(掲載日:2006年12月17日) |
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この項目の見出しについては、より正しく表現するなら、『沖田踊と黒丸踊を教えたのは従来説と同じ、法養である』です。江戸時代の大村郷村記には、沖田踊と黒丸踊(由緒の項)に法養が教えたとの主旨が書かれてあります。あと郷村記をさらに述べるなら、寿古踊の項には法養の名前が出てきません。 (大村市教育委員会発行の『大村市の文化財』(2004年の改訂版)を引用・参照しますと)郡三踊りは、室町時代芸能の序・破・急の基本を伝えている三部作と言われ、寿古踊が『序』、沖田踊が『破』、黒丸踊が『急』を表しているとのことです。また、踊りの所作には、能楽の基本も伝えてあるとのことです。 このことは私なりに解釈するなら、郡三踊りは三つの踊りで一つの踊りであると言うことではないかと思いました。それなら、たとえ郷村記に記述がなかったとしても、寿古踊も法養が教えたことと解釈してもいいのではないかと思えましたが、一応正確に記すなら上記の『 』内の通りです。 ただ、(1990年発行の)『大村市の文化財』初版本162ページには、「この三つの踊りを教えた人は、(中略) 法養と言われています」との記述もありました。(後年出版された改訂版では、郷村記にそって文章が改訂されたのでしょうか、「沖田踊と黒丸踊をおしえたのが・・」となって寿古踊の文字が入っていません) 私は後でまた新事実が発表されるなら改訂しますことを前提に、このシリーズでは郡三踊りは共通項として、踊り自体の様式が同じ室町後期、同じ踊りの三部作との観点にたって、この郡三踊りを教えたのは三つとも法養であるとの立場で、記述を展開していきたいと思っていますので、この点ご了承願います。 あと、なぜ同じ大村郷村記を参考にして「大村純伊」由来説は偽装と言って、教えた法養の記述は正しいかについて書きます。江戸時代大村藩が作成し現在も大村市が公的に使用している偽装の歴史事項は、『大村の偽装の歴史や表現一覧表など』ページに書いている通り、お殿様の系図及び「大村純伊」に関係する起源や由来(郡三踊りや大村寿司など)です。ですから、この法養に関しては、お殿様の箔付けなどと関係ない部分であり、踊りを教えた人物まで、あえて偽装する必要もないからです。 また、法養がこの地に生存して、その後死去した事実として郷村記に沖田郷から黒丸郷の黒田へ移ったとの記述、その黒丸町に「法養田(ほうようでん)」=水田1町2反歩(約11,900平方メートル)と言う田んぼのあったことの伝承、さらには法養墓(現在『法養の碑』=このページ掲載中の写真参照)などの存在もあり、法養が当時の郡村にいて郡三踊りを地元民に教えたことは間違いないものと思っています。 後述の『4)踊りの習得期間は長年かけて教えたものと思われる』の項も関係ありますので、ご参照願います。 (掲載日:2006年12月19日) |
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3)踊りの起源は応仁の乱の頃か、その後と思われる
私は、(虚構と言われている)従来説の「大村純伊」の領地回復説と違い、郡三踊りの起源は法養が当時大村の中心地だった郡村に来た時期=応仁の乱(1467年〜1477年)の頃もしくはその若干後の頃(室町時代後期か戦国時代始めの頃)と思っています。しかも、かなり年月かけて教えたものと推測しています。(この教えた期間のことについては次の項『4)踊りの習得期間は長年かけて教えたものと思われる』に詳細に述べます)
この虚構説は(「大村純伊」と同一人物と言われている)大村純治の何回も佐賀側で起こった敗戦・徘徊の歴史を、あたかも大村側であったようにして「1回の敗戦」その後の「大勝利」で、まるで「凱旋将軍」のごとく描いたものと言われています。 しかし、この「敗戦」や「戦勝」も仮にあったこととしても佐賀側に残っている資料と対比して、約30年から40年も早く、全く時代が合わないものです。つまり、「中岳合戦も、その後約6年後の文明12(1480)年に戦勝して領地回復した」説も総て江戸時代の大村藩が偽装した虚構の歴史と言うことです。 大村藩が、お殿様を”偉大”にみせるため=箔付けのため、既に存在していた郡三踊りをあたかも「戦勝」を起源に踊られたかのごとく偽装して描き出したものと言われています。(この項、外山幹夫氏の書籍『大村純忠』の「純伊文明六年敗戦説は虚構」の項目を参照して書きました) このような「大村純伊」虚構説ではなく、やはり既に<2>踊りを教えた法養についての項で書いた通り、法養は、応仁の乱(1467年〜1477年)の頃もしくは若干その後(室町時代後期か戦国時代始めの頃)大村に来て郡三踊りを長年かけて教えたものと思われます。 次の項=『4)踊りの習得期間は長年かけて教えたものと思われる』も、この時期に関係してきますので、ご覧願います。 (掲載日:2006年12月20日) |
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4)踊りの習得期間は長年かけて教えたものと思われる
従来説では、「大村純伊」の戦勝時期に合わせて法養が教えたかのごとく言われて来ました。つまり分かりやすく表現すると、「お殿様が戦勝して帰ってきたので、それを機会に短期間に踊られた説」です。果たして1年間とか数年とかの習得期間で、この郡三踊りはおどられたのでしょうか? 私は、この説に対し大きな疑問が湧きます。本当は法養が、長年かけて当時の須古郷、沖田郷、黒丸郷の地元民に教えた踊りではないかと思っています。その根拠は、既に「お殿様の偽装」の「虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還」ページにも書いていますので重複しますが、次の通りと思っています。 (1)簡単に覚えられる踊りではない。 私は、近年踊り保存会の方と話し、「踊り慣れた方でも上演日が決まれば何ヶ月も前から練習を繰り返している」とお聞きしました。また、衣装や道具その他(古くなっていればその入れ替えも含めて)色々な準備も当然あります。私は、これを聞いただけで、約500年前にこのような踊りの素地が全くない地元民に教える、あるいは覚える期間は、相当な年月がかかったものと想像しました。 あと、楽器の件で、郡三踊りとは全く別の郷土芸能保存会の方が次のように語られていました。「踊りを覚えるのも大変だが、楽器をマスターするのも難しいのですよ。特に、笛を吹く人がいなくなって困っている」と、お聞きしました。またその方は「残念ながら、郷土芸能が絶えたところの原因は、踊りだけでなく楽器の件も大きいのじゃないかなあ」ともおっしゃっておられました。 郡三踊りは現在は、子どもさんが中心になって踊っておられますが、500年前当初から近代までは大人の踊りで、しかも農家の長男だったと言われています。昔も今も農家の方は、ただでさえ忙しい身です。踊りなどを覚えられる期間は、当時も現在もとても農繁期には出来ません。農閑期(晩秋から春前の数ヶ月の内の限られた日数)の(今みたいに夜間照明器具などがない時代ですから)それも昼間か明るい夕方と思われます。せっかく覚えても農繁期になれば、忘れることもあったかもしれません。 繰り返しの練習を重ねた習得だったろうと推測できます。ですから、ここからは私の完全な想像ですが、寿古踊、沖田踊、黒丸踊は、覚えるのに相当な年月かかったと思われます。たぶんに各踊りとも最低でも数年から5年近くです。さらに(同時進行も可能ですが)道具や衣装一式揃える必要もあったと思われます。 さらに(単に踊りをおどるだけでなく)この郡三踊を神事芸能踊りとするなら、当然神主さんに近い形で神事に関係する儀式、儀礼を覚えることも併せて必要だったと思われます。だからこそ、踊りについての厳格な決まりごとが、約500年も伝承されたのでしょう。また、逆の側面から考えれば、この神事同等の厳格な決まりごとがあったからこそ、室町時代後期の踊りの様式が一部を除き、そのまま現代へ伝わったとも言えます。 この項のまとめみたいになりますが、単に「お殿様が戦に勝って来たから、さあ皆でお祝いに一緒に踊ろう」と言う、そんな簡単な踊りではないことは断定できるものです。仮に戦勝踊りで「皆で一緒に踊ろう」と言う踊りなら、神事芸能踊りのような厳格な決まりや伝承なども必要なく、それこそ踊りの形は尊重しつつも参加者の意思に任せればいいと思われます。
法養は、大村郷村記によると佐賀の須古村から大村に来ています。これは当時の行程から想像して須古村(現在の佐賀県白石町須古地区)から来るとなると、険しい多良岳越えは避けて嬉野か塩田当たりから郡村の須古郷(現在の寿古町)に、まず到着したと思われます。 この「須古郷に先に入ったのでは」と想像できるのは、主に二つの理由が考えられます。その件を述べる前に、当時の郡村(現在の郡地区)は、大村の政治・経済の中心地でした。好武城周辺は奈良・平安時代から肥前国(首府=首都は佐賀大和)の長崎県央地域の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)がおかれました。 その後、郡村は大村純忠が今富城(現在の皆同町)から三城城に政治の中心地を移すまで約1500年間変わらぬことでした。なお、ご参考までに、なぜこの地域を“郡”(村や現在の地区)と呼ぶのかは、先の彼杵郡家の「郡」から来ています。 法養が最初に須古郷に、まず入った理由として想像される一つ目は(これが一番大きな理由と思われますが)、この郡地域を治めている豪族に援助も含めて滞在もしくは永住の許可をもらうために法養は立ち寄ったと思われます。その豪族は、好武城周辺に住んで、この地域を治めていたと思われるからです。この頃の豪族と関係があるか、ないか不明ですが1507年頃に佐賀側から来た(「大村純伊」と同一人物と言われている)大村純治も「郡城(好武城)に入る」との記録(歴代鎮西志)があります。 次の理由として、地理上からして佐賀から来た時に須古郷の方が最初から、郡川を渡らなくてすむからです。沖田郷(現在の沖田町)や黒丸郷(現在の黒丸町)へ行くには、この川を渡る必要があります。郡川は、堤防完備の現在でも川幅約60〜100メートルありますから、当時はもう少しあったと思われます。旅行みたいに川を1回のみ渡るならいいですが、生活しながらと言えばたとえ飛び石があったと仮定しても、この川の往復は、わずらわしいものです。 そのようなことをするより先に須古郷でまず須古踊(現在の寿古踊)を地元民に教えたのではないでしょうか。その後、順番的に沖田郷で沖田踊、最後、黒丸郷で黒丸踊と言う具合です。このことについて法養が須古郷に住んでいたと言う記録はないのですが、郷村記によると概要「沖田郷に住み、その後、黒丸郷の黒田に移り住んだ」との記述があります。 このことは私の推測ではありますが、色々な意味があると思います。沖田郷に住みながら、黒丸郷の人に踊りを教えることは可能ではありますが、果たしてそうでしょうか。法養は先の項目で記述しました通り、後の黒丸郷で踊りを教えた褒美に「法養田(ほうようでん)=水田1町2反歩」をもらっています。 じゃあ、その前は何の収入も無く生活していたとは到底思えません。やはり、沖田郷に住みながら沖田踊りを教えることにより、水田なのか米なのか現金なのかは別としてもしても、何らかの収入を得ていたと思うのが自然だと考えられます。(それは、須古踊を教えた期間中も同じでしょう) ですから法養は寿古踊、沖田踊、黒丸踊をいっぺんに短期間に教えたのではなく、順番に相当の年月をかけて教えたのではないでしょうか。簡単に短期間に覚えられる踊りなら、ありがたみが湧くでしょうか。やはり相当期間かかって習得したからこそ尊敬の念あり、郡村の豪族や領民が法養の長年生活する上で必要な援助もしくは水田まで褒美として上げたのではないでしょうか。 (掲載日:2006年12月21日) |
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5)踊りの起源の従来説は1980年代には公式にも否定されていた この項、結論から先に書きますと、郡三踊りの起源の従来説(虚構と言われている「大村純伊」戦勝祝い説)は、1980年代には公式にも否定されていました。また、外山幹夫氏(当時、長崎大学教授)などの本や論文で、江戸時代の大村藩が作成した虚構であり、既にあった踊りを後でお殿様の箔付けに使ったものと明解に述べておられましたた。 この件は、既に先の項目にも何回か触れましたし、さらに詳細は「お殿様の偽装」に書いていますので、こちらをご参照願います。そのような状況から、この項は概略を下記2項目に絞り記述しておきます。
大村市教育委員会は1980年代に郡三踊りについて、各踊り別に詳細に調べられた冊子が発行されています。それは下記の通りで、順番は発行順です。 1.『大村の沖田踊』(1983年=昭和58年3月31日) 2.『大村の寿古踊』(1984年=昭和59年3月31日) 3.『黒丸踊』(1985年=昭和60年3月31日) 各冊子の郡三踊り歴史(起源などの)関係の記述で、(注:下線は上野が付けた) 1.『大村の沖田踊』の本には、<(前略)芸能の発生を戦勝祝賀に求める例は多く、直ぐに信頼することはできない。(後略)> 2.『大村の寿古踊』の本には、<(前略)須古踊りをふくむ三踊の起源については、戦勝祝賀に求める型で、その当時の資料に基づかない限り軽々には承認できないし、年代等については疑念はさむのが自然であろう。(後略)> 3.『黒丸踊』の本には、(上記の二例と、ほぼ同じ記述をしながら)<(前略)大村純伊の帰城祝説に彩られ、それが信頼しにくいと同時に、最初の形態を推量することは困難である。(後略)> と大村市教育委員会発行の冊子に堂々と、従来説を否定している記述がされていることも注目に値するものです。これは、1980年代当時の大村の偽装の歴史が問題化して従来説では、破綻をきたして何ら説得性がないため改める方向だったことを物語っています。 ご参考までに、上記の3冊が、現在でも本来なら大村市の郡三踊りについての公式調査ならびに公式発表文書(冊子)です。(これ以降、この種の発表文書類はないはずです) また、この郡三踊りは国選択無形民俗文化財及び長崎県指定無形民俗文化財になっています。その中で国選択無形民俗文化財の紹介文章で、おやっと思うところがあります。それは、長崎県のホームページで紹介されています。 『黒丸踊』の国選択年月日が1973(昭和48)年11月5日で、やや年代が古いため踊りの起源記述は、従来説で書かれています。しかし、『大村の寿古踊』及び『大村の沖田踊』は、そうではありません。両踊りとも国選択年月日は1980(昭和55)年12月12日です。この紹介文章には、踊りの起源記述は、一切書かれていなくて踊り自体の内容のみです。 つまり、国選択年月日の早かった『黒丸踊』には従来説を書いたが、その前後から問題になっていた踊り起源の偽装について以降さらに明確化し、もう従来説は記述できなかった状況を物語っています。国選択無形民俗文化財に選ばれた以上、それは、当然の処置だったと思われます。 (2)従来説は「江戸時代大村藩の偽装の記述である」と学者や先生方は、以前から主張されていた。 なぜ、上記(1)のように1980年代当時の大村市教育委員会の冊子でも従来説が否定されているかの背景について少しだけ触れたいと思います。それは、当時の郷土史の学者さんや先生方は、概要「江戸時代大村藩が作成した「大村純伊」の中岳の合戦、加々良島逃亡、領地回復説全体が虚構である」と以前から主張されていました。 その根拠として中岳の合戦に勝った側の佐賀側に、なんの史料(資料)がないこと、あるいは実際「大村純伊」と同一人物と言われている大村純治の佐賀側での敗戦、徘徊、領地回復また敗戦などをあたかも大村側で起こったごとく誤用したものだと述べておられます。 下表は「大村純伊」と同一人物と言われている大村純治の佐賀側での出来事の史料(資料)です。この史実を江戸時代の大村藩が誤用して「大村側で1回の敗戦、約6年間の逃亡、領地回復」説を作り上げたと言われ、その偽装の歴史をいまだに大村市は採用しているのです。 また、大村市から出されている歴史の本やパンフレットなどには、大村側の偽装の歴史はいくらでも載せてあるのに、下表のような佐賀側にある大村純治の敗戦、徘徊、領地回復、また、敗戦、彼杵・大村への進出と割合公平にかかれた、しかも事蹟年が入った史料(史料)は、ほぼ全くと言っていいほど採用してないことも、補足しておきます。 2行目の<1507年大村純治もまた郡城に入る>と、3行目の<彼杵大村日向守大村純治>と言う部分は、ご注目下さらないでしょうか。長く続く大村氏の本当の家系(別の支族は除く)が、この時期に本領のあった佐賀側から来ていることを物語っています。この件についての詳細な記述は、大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」をご覧下さらないでしょうか。 元々、大村氏は佐賀・藤津郡出身の平姓なのに、江戸時代の大村藩は、それを「994年藤原姓の四国出身で大村に来て、その後ずっと大村を統治した」(=「大村の千年の歴史」説)と偽装して記述しています。それとほぼ同様の描き方で、お殿様の箔付けのために既にあった郡三踊りをあたかも「大村純伊」と結びつけて偽装・誤用したものと思われます。 念のために、上記「大村の千年の歴史」説については、2006年3月発行の『大村史談』の論文で大村氏の子孫にあたられる勝田直子氏が、<現在、郷土史紹介のパンフレットなどに使われている「大村千年の歴史」とか「大村正史によれば」などの言葉は、謳い文句とはいえ、これは止めるべきである。>と明確に述べておられることも重ねて紹介しておきます。 繰り返しになりますが、詳細は「お殿様の偽装」に書いています通り当時の合戦や佐賀出身の大村氏の動向についても時系列表も含めて掲載していますので、ご一読下さい。 (掲載日:2006年12月23日) |
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踊りの継承は保存会のたゆまない苦労と努力の賜物 郡三踊りは、大村市内で上演されるだけでなく広く全国でも、また海外でも上演されたと聞きます。大村秋祭りのお客様の中は、毎年これらの踊りを楽しみしておられ、中にはデジタルカメラで撮影された写真を自らのホームページで、紹介されている方もけっこう見受けられます。 このような魅力ある踊りを何かと色々な困難の多い中、長年維持しておられる保存会のご苦労やご努力に対し、私は常に尊敬の念を持っています。まさしく、この郡三踊りは各踊り保存会のたゆまない日々のご苦労とご努力の賜物と思っています。 このような大村の誇るべき伝統芸能の起源について、郷土史の学者さんや先生方だけではなく1980年代の大村市教育委員会発行の各踊り専門の冊子にも、公然と「大村純伊」由来説について「信頼できない」などと書いていました。 そのような経過をたどりながら、近年、特に「歴史観光立市」のキャッチフレーズのもと完全逆戻りして、大村市は観光案内ホームページや観光ガイドブックなどに、またまた、虚構と偽装の従来説を書き連ねています。 このことは果たして、今までご努力されてきた関係者に報いていることになるのでしょうか。また、詳細なことを知らずに大村市に来て頂ける観光客の方を始め多くの方へ、知らせていく記述内容でしょうか。とりわけ全国あるいは全世界から閲覧可能なホームページに堂々と偽装の歴史を掲載していいものでしょうか。 さらに申し上げるなら、郡三踊りは、国選択無形民俗文化財及び長崎県指定無形民俗文化財になっています。そのような価値ある国民共有の文化財が、このような偽装の歴史を伴って、広範な方に知らせていいものでしょうか。 私は、1980年代に大村市自ら否定していた郡三踊りの「大村純伊」由来説は、現在においても、この際きっぱり削除して、正しい起源や歴史をもって紹介することが、求められていると思います。 「この踊りは、五百年の歴史がある」だけの表現でも十二分に通用するのでは 私は、伝統芸能五百年の歴史の重みは、それだけでも光彩を放ち、踊りを見る方あるいは知ろうとする方々に感動を与えていると思っています。それは、踊りを見たことのない全国の方や外国人の方に手短な表現で (1)「この民俗芸能(郷土芸能)は、約500年の歴史があります」(These folk performing arts have about 500 years of history.) (2)「この踊りを維持するために、保存会の方が毎年日々努力されています」(In order to maintain this dance, members of a preservation meeting are doing efforts hard every day.) とホームページやガイドブックなどに記述したとします。私は、これだけでも十二分に郡三踊りの歴史の重みが通用する言葉だと思います。さらに室町時代後期の芸能を現在でも伝えていますみたいな補足があれば、なおいいのではないでしょうか。また、何らかの機会があり、踊りを直接見られたならば、「素晴らしい」、「ワンダフル!」と言う反応があるはずです。 それだけ民俗芸能(郷土芸能)が500年間も長続きする例は、日本でも世界でも少なく、見る方や知ろうとする方々に、その貴重価値とともに感動を与えるからだと思います。 繰り返しになりますが、大村市が現在、観光ガイドブックや観光案内ホームページなどに記述している偽装の「大村純伊」由来説は、そのような価値ある各踊りの紹介文として、むしろ逆効果になるのではないでしょうか。是非とも、この部分の全面削除と正しい歴史記述を改めてお願いするものです。 (掲載日:2006年12月25日) |
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あとがき
今回のこのシリーズ『大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について』と言うテーマで書いてまいりました。繰り返しなりますが、今まで書籍類やホームページなどで、郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源や由来は、全てと言っていいほど、江戸時代に大村藩が偽装して作成された記述にそって掲載されています。 その第一の原因は、大村市自ら1980年代の公式記録(各踊りの冊子)では、その従来説を否定されていたにも関わらず、その後も今でもまた偽装の記述を継続されているので、それを参考にマスコミ報道、各種出版物も発行されているからだと思います。 大村の歴史において偽装極めつけの「大村千年の歴史」記述とともに、偽装の双璧とも言うべき、この「大村純伊」由来説が2006年現在においても公然と採用されていることはについて、私は一大村市民ではありますが、大村に関心を持たれた全国の方、学生さん、子どもさんなどに申し訳ない気持ちです。 私は、『お殿様の偽装』で明らかにしている偽装の表現である「大村千年の歴史」項目については、けっこうさっさと書きました。しかし、今回の郡三踊りの記述については、正直に申し上げて何回も自問自答しながら作成しました。それは、日々努力されている各踊り保存会の方々のお顔が浮かんでいるからです。 各踊り保存会の方もその多くが現在の大村市が採用している従来説を用いておられると思います。そのような状況も私なりに分かっていますから、かなり考えながら、これらの文章も書いてきました。しかし、これらの歴史や起源は、色々な事情があったとしても、やはり第一に大村市が(1980年代の公式記録と同様)史実にもとずき正しい記述をすべきではないのかなあと、思いました。 また、たとえ私が今回書かなかったとしても、必ず大村市内外のどなたかが記述される事項と思ったことも確かです。その点については既に大村氏系図(「大村千年の歴史」事項)の問題点については、私よりずっと先に掲載されているホームページもいくつかあります。 そのような状況から、大村市以外の方から「大村千年の歴史は偽装だ。郡三踊りの従来説はおかしい」とご指摘を受けるより、不十分かもしれませんが、今回一市民として従来説ではない考えを一つの情報提供として掲載しました。これらに対し、賛成、反対、異論や新情報提供など様々と思います。 私も金科玉条にこの説が絶対正しいなどとは考えていません。新たな情報や根拠ある意見があれば変更・改訂するのが当然であるとも思っています。ただし、今までは歴史事項からのみのアプローチにより従来説は虚構、偽装と言う説は多かったと思いますが、今回、郡三踊りを新たに民俗学見地から、ある大学教授の見解を踏まえて掘り下げた記述は初めてと思います。 つまり、郡三踊りは「戦勝踊り」ではなく、もっと格式・格調の高い神事芸能踊りであり、その様式をもって毎回踊られているいうことです。また、なぜ室町時代後期の踊り様式が500年後の今もそっくり伝わっているのか、なぜこの様式が(一部を除けば)厳格に守られてきたかの原因も、それは結局のところ神事芸能踊りだったからにほかならないと私は思っています。 むすびに当たりまして、今回のこのシリーズ作成に当たり様々な方にご協力頂きました。ここをお借りしまして感謝申し上げます。また、このシリーズ、読んで下さった皆様、ありがとうございました。 (掲載日:2006年12月26日) |
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