この妙宣寺(みょうせんじ)の紹介について、まず、寺院発行のパンフレット内容を下記(1)に書いています。次に、(2)では『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の妙宣寺(67ページ)、さらに(3)では(大村)郷村記を引用、紹介する形で記述しています。
(1)妙宣寺のパンフレットより
(実物は縦書きだが、今回横書きに直した。次の<>内の通り) <大村市の北の門戸松原、福重、竹松は郡と呼ばれ奈良時代に既に仏教文化の花を咲かせたところでございます。 郡七山十坊と云って沢山の寺がありましたが、大村十八代(注1)キリシタン大名で有名な純忠の時に、キリシタンの残徒によって、悉く焼き壊されて廃棄となり、大村藩六万の領民ことごとくキリシタンになったと云われております。
当山の開山仙乗院日順上人は、加藤清正の朝鮮の役に大村十九代(注1)喜前公が従軍され、それに従軍布教師として、朝鮮に渡り清正の陣中において、勝軍の秘法を修め、護身の加持につとぬられました。慶長三年に帰還されるや、キリシタン禁制で大村藩が坂り潰しに会うところを、 救いを加藤清正公に頼み、事なきを得たのであります。
日順上人は、キリシタンを教化して、大村湾の内海を中心にお題目を広めて、大村法華の基を開かれたのであります。 慶長七年(一六〇二年)に、郡七山十坊の一つ極楽寺跡(現在の郡中学校付近)に、 仙乗院として庵を構えて創立いたしました。 慶長十九年現在の福重の矢上の里深山に移り、山号を深重山とし、妙法を宣布 されたので寺を妙宣寺と名付けられたのであります。>
(注1):「大村氏系図」は「初代」から大村純忠より数代前まで江戸時代、大村藩の創作(偽装)と言われている。そのため「大村家18代」とか「19代」とかの代数表示自体が間違いである。「初代」から大村純治以前まで、その存在を示す事績さえもないと言われている。ただし、江戸時代、大村藩主の代数で、初代藩主、二代目藩主、三代目藩主と表示するのは正確である。<参照:大村の偽装の歴史や表現一覧表など、江戸時代に偽装され大村氏系図>
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中央:妙宣寺(奥の山:郡岳)
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(2)妙宣寺の紹介(『大村市の文化財(改訂版)』より)
(この本には、次の<>内の通りが書いてある) <福重矢上にある日蓮宗の寺です。慶長7年(1602)初代藩主大村喜前(よしあき)により建てられ、仙乗院日順上人によって開かれました。喜前は、いち早くキリスト教を棄教し、慶長7年肥後本妙寺から日真上人・日順上人を招いて領内に日蓮宗を広めました。 天正2年(1574)キリシタンに壊された後、初めて極楽寺院(宮小路)に祈願所を設け、仙乗院と名付けました。
最初の建立地であった極楽寺の場所は水の便が悪かったために、慶長19年(1614)に現在地に移りました。そして寺名も現在の「深重山妙宣寺」となりました。江戸時代には寺領21石3斗程と、1,335軒の檀家(だんか)をかかえました。領内日蓮宗の本寺である本経寺との本末争論もありましたが、第3代住職日良の時に正式に本経寺末寺となりました。
特に第11代住職の日衛(にちえ)は、豊後の哲学者三浦梅園(ばいえん)との親交があつく、その日記『西遊日記』の中にはたびたび妙宣寺のことが記されています。例えば、 境内にこんこんと湧き出る「百石水」、キリシタンが本堂を壊そうとして裏山からころがした大石のことなどが記されています。また、住職の隠居所「枕肬亭(ちんこうてい)」などが境内にあったことがわかります。江戸時代に造られた本堂は、明治18年に焼失しました。現在の本堂は、廃寺となっていた池田山の宝円寺の本堂を買取り、移築したものです。当時のお金で35円でした。>
(3)大村郷村記の関係記述
この深重山妙宣寺に関係のある記述が大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)にあります。その当該部分(第二巻109〜113ページ)を引用し紹介します。下記の点線内が、その文章です。(注:文章は縦書きの続き文ですが、横書きに直して分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白や改行を挿入しています)
原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。また、?のある部分は表示できない文字もしくは不明文字です なお、見やすくするため改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。
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一 深重山妙宣寺 (法花宗万歳山本経寺末 寺領二十壱石三斗四舛三合七勺 檀家千三百三十五軒)
本堂 五間梁五問萱宇
多宝如来 木座像長九寸五分金彩色
本尊 宝塔 高壱尺三寸五分横三分
釈迦如来 木座嫁長九寸五分金彩色
鐘楼 八尺方 瓦宇
鐘口 弐尺壱寸四分
三十番神 木座像彩色長四寸宛
矢大臣 両座木座像彩色長四寸五分宛
堂 九尺四面 茅宇仏檀入三尺横壱間
石鳥居 壱基
境内東西三拾三間 南北弐拾五間 薪山東西八拾三問 南北八拾弐間
当寺は慶長七壬寅年丹後守喜前草創仙乗院日順上人開基なり 抑当寺創立の由来は先是天正の初耶蘇宗門発起して邪徒領内に充満す 爰に文禄元年太閤秀吉公朝鮮を征伐す時に加藤肥後守清正先鋒の命を蒙り朝鮮国釜山海に渡海し喜前も亦同しく彼の地に役す
此時肥後本妙寺日真上人及ひ日順上人其外僧徒十余人同しく渡海し清正の陣中に於て勝軍の秘法を修行す 喜前兼て清正とは入魂なりし故陣中に来るの折日真日順に会合して婁懇志を通す 慶長三年喜前帰朝の後耶蘇等の挙動を見聞するに邪法を勧めて民心を懐け終に国家を奪ふの遠謀ある事を察す
依て一族旧臣等と議して耶蘇の道場一宇も不残破却し住居の伴天連共悉く追放す 於是領内厳しく彼の宗門を禁止す 其比喜前肥後の国に到る時に清正の勧めに依て日真に帰依し終に法花宗に改宗あり 其後近臣福田采女峰新兵衛を肥後へ遣し日真臼順の両僧を請待して領内を巡説せしめ宗門の功徳を示し説法教化ありしかは庶民誓て当宗門に信服し授法の輩巳に数多なり
於是本経寺及ひ当寺を造立し本経寺を以て代々の菩提寺とし当寺を以て祈願所となす時に未だ寺号なく仙乗院と号し今の極楽寺の地にあり 然に此所駅路に近く又水の勝手不便なるゆへ別に清浄の地を見立同十九甲寅年三月廿五日寺を皆同村矢上の里に移し深重山妙宣寺と号し専ら法華経の功徳を説て諸人を教化あり
(其比耶蘇の余徒寺を破却せんと山上より投掛し石とて今に本堂の後にあり此石丹投と云) 夫より三代の後智光院日良代本経寺と本末の争ひ起り双方訴訟に及の処終に本経寺の末寺ニ極り 以後八ヶ寺の執頭たり
当寺世教
開山仙乗院日順
生国肥前須古の産なり 嘗て京師本国寺に遊学の砌住持日桓聖人大僧正に昇進あり 時に日順一首の和歌を献す
天子叡感の余権大僧都に任せらる (勅許の口宣曰献一首和歌叡感余宣奉祈国家安全宝祚延長者依而執達如件) 其比本経寺開山日真上人は京都法鐘山妙伝寺貫順と云日順学友たり 天正十一癸未年加藤肥後守清正摂州大坂に於て一宇の道場を建立あり
是を法性山本妙寺と号す 則日真上人を請待して開基とす 同十五丁亥年清正肥後の国を領す 依て翌丙子年大坂本妙寺を肥後に移す時に日順京師より日真を慕ひ肥後に下向す 文禄元年朝鮮の役に加藤清正に従て彼の地に渡海し清正の陣中に於て屡丹後守喜前の懇志を受 け長刀を拝領す
慶長七壬寅年喜前の招に応し日真上人と同しく肥後の国本妙寺より当国に来り 法花宗門を弘通し領内の臣民を教化し邪法を去て正法に入しむ 是全く日順の力なり 依て同十九甲寅年寺地を給り一宇の道場を建立し深重山妙宣寺と号し乃日順を以て開基とす
同年丹後守純頼昊天大明神の神躰を嬉野大定寺より奉迎日順及朝長与左衛門を使す 此故を以て幸天祭礼の節は今に当寺より本経寺立合にて執行するなり 寛永七午年十一月十五日寂
二世 仙乗院日隆
生国不知 明暦元未年五月十九日寂
三世 智光院日良
生国不知 当代本経寺と本末の争ひ起こり双方訴訟に及の処終に.末寺に極り是より八ヶ寺の執頭となる
四世 聖境院日逞
生国不知 宝永元申年五月廿九日寂
五世 浄光院日諦 .
当国郡村矢上の産 在住二十五年 享保六丑年十一 月八日寂
六世 通正院日這
生国不知 在住十七年 当代まては日順大僧都勅許の論旨当寺の什宝にてありし処本経寺十一世日延宝永六丑年遷化にて数年の問無住なり (十二世日証享保二酉年入院其 間九年無住なり) 依て其比飯高檀林より恵光と云僧暫く看坊にてありし比右の綸旨拝見仕度との事ニ付本経寺へ遣せし処其儘にて終に返さすと伝 (恵光後池上の本門寺に住職す ) 享保三戌年十一月十二日寂
七世 本成院日春
生国不知 在住十七年 享保二十卯年九月九日寂
八世 桓妙院日秀
当国の産 妙経寺より入院 在住十六年 寛延二巳年二月三日寂
九世 正善院日乗
.当国時津村の産 妙経寺より入院 当寺開山以来登城の節は濡門まて乗輿免許なり 当住不眼に依て途中諸士へめ不礼を恐れ止之然共今に乗輿免許なり 宝暦六子七月廿二日寂
十世 恵?日?
当国郡村黒丸の産 本地寺より入院 在住八年安永九子年八月八日寂
十一世 能事院日衛
肥後熊本の産 俗姓井上氏 在住十二年文化七午年七月廿二日寂
十二世 恵応院日随
備中の産 在住十四年 寛政十二申年正月七日寂
十三世 諦元院日静
当国長与村の産 在住十六年 文化六巳年三月本堂庫裏共に焼失す 天保二卯年十月四日寂
十四世 了義院日耀
当国小姓小路の産 本地寺より入院 在住二十六年 天保四巳年四月三日寂
十五世 寛成院日養
当国池田分の産 俗姓小嶋氏 天保三辰年六月日五住職 同十二丑年九月二日退院
十六世 本事院日明
下総の産 天保十四卯年九月朔日住職 安政二卯年三月九日有故退院
十七世 天真院日寿
当国岩船の産 俗姓吉村氏 安政五午年二月五日住職
----------------------------(大村郷村記は以上。下記は、その現代語訳)-------------------
・現代語訳
上記、(大村)郷村記、深重山妙宣寺の項の現代語訳は、次の<>内と思われます。一部パソコン変換できない文字には”?”にしています。( )、「」内は送り仮名や上野の補足です。妙宣寺の歴代住職名については分かりやすいように太文字に変えています。あと、全文続けますと読みにくくなりますので、文章の区切りと思えるところなどに句読点や改行もしています。また、一部文章で解釈しにくい内容は、大村郷村記そのままにしています。分かれば後で改訂も考えています。なお、この現代語訳は、あくまでも素人訳ですので、参考程度にご覧願います。
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妙宣寺
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< 深重山妙宣寺 法華宗(日蓮宗)の万歳山本経寺の末寺である。寺領(石高)は約21石3斗である。
檀家(数)は1,335軒である。本堂の広さは奥行約6m、横幅約6m。萱(かや)ぶき屋根である。
本尊は(次の三尊である)多宝如来(たほうにょらい)は金色をした長さ約29cmの木製の座像、宝塔(ほうとう)は高さ約41cm横幅約9cm、釈迦如来(しゃかにょらい)は金色をした長さ約29cmの木製の座像である。
鐘楼(鐘つき堂)の大きさは約242cm四方の瓦(かわら)屋根である。鐘の口(の直径)は約195cmである。
三十番神は彩色された木製の座像で長さが約12cmである。矢大臣(神像)は(左右)両方とも彩色された木製の座像で長さが約14cmである。(その)堂(内)は約272cm四方である。萱ぶきの屋根のある仏壇に入っており奥行約91cm、横幅約182cmである。
石の鳥居が1基ある。境内の大きさは東西約60m、南北約45mである。薪山(薪を入手するための山林)の大きさは東西約150m、南北約148mである。
当寺(深重山妙宣寺)は、慶長七壬寅(みずのえとら、じんいん)年(1602)に丹後守(大村)喜前(おおむら よしあき)の草創期、仙乗院日順上人が 基礎を築いた(開山した)。念のため当寺は先の天正(年間)初め、耶蘇宗門(キリスト教)の蜂起があった頃にキリシタンが(大村)領内に満ちあふれた。この時、文禄元年(1592)、太閤秀吉公(豊臣秀吉)が朝鮮征伐する時に加藤肥後守清正(加藤清正)が先鋒(戦の先頭)の命を賜り、朝鮮国の釜山の海へ渡った。大村喜前も、また同じように彼(加藤清正)の戦地におもむいた。
この時に肥後の本妙寺の日真上人及び日順上人その他僧徒(僧の仲間)10数人と同しく渡海し(加藤)清正の陣中において戦に勝つための秘法を修行した。(大村)喜前はかねてより(加藤)清正とは昵懇(じっこん)だったし、それで陣中に来た機会に日真(上人)、日順(上人)に会って親切で行き届いたこころざしを行った。
慶長三(1598)年、(大村)喜前が帰朝(帰国)の後でキリシタン(の行動)を見聞するに(キリスト教は)邪教を勧めて民心を手なずけて最後には国を奪う策略があることを察した。よって(大村家)一族や家臣と協議してキリスト教会が一つもないように破壊し(大村領に)住んでいる伴天連(ばてれん、キリシタン宣教師)の全員を追放した。これから(大村)領内では厳しくキリスト教を禁止した。
その頃、(大村)喜前は肥後の国に行った時に(加藤)清正の勧めで日真(上人)に帰依して(すがって)法華宗(日蓮宗)に改宗した。その後、(大村喜前の)そば近くに仕える福田采女と峰新兵衛を肥後の国へ派遣し、日真(上人)と臼順(上人)の両僧を招待して、(大村)領内(各地を巡って)話してもらって法華宗(日蓮宗)の功徳を示し教化していったが、庶民(領民)は法華宗(日蓮宗)に誓いをおこない心服し(日蓮宗の教義)をさずかった民衆は数多かった。
ここから本経寺及び当寺(妙宣寺)を創建して、本経寺が(大村家)代々の菩提寺とし、当寺(妙宣寺)が祈願所となったが、その当時は寺号がなくて仙乗院と呼称し今の極楽寺の地(=宮小路付近)にあった。しかし、この場所は(長崎街道の賑やかな)道路近くで、また水の確保が不便なため、別の水が豊富で静かな所を見つけ出して同年(慶長)甲寅(きのえとら、こういん)年(1614)3月25日、寺を皆同村矢上(郷)の里に移転し、深重山妙宣寺と名乗り、もっぱら法華経(日蓮宗)の功徳を説て多くの人を教化していった。
その頃、キリシタンの残りが寺を破壊しようと思って山の上から投げかけた石があって、これを石丹投(現在呼称で「丹投石」)と言う。それから三代後の後智光院日良の時代に本経寺と(宗門上の)本山か末寺かの争いがあって両寺とも訴訟に及んで(その結果)本経寺の末寺に至った。それ以降は8つの寺院の執頭となった。
当寺世教(注意:意訳で深重山妙宣寺の経過と歴代住職の系譜のことと推定)
開山は仙乗院日順である。 生国(生まれ)は肥前国の須古(すこ)の出身である。 かつて京都の本国寺に遊学していた頃に日桓聖人が大僧正に昇進した。その時に、日順(上人)は一首の和歌を献じた。天子(天皇)が褒めて余権大僧都に任命された。 (天皇の許可を口頭で伝えられ、献上した一首の和歌は褒められ、余宣奉祈国家安全宝祚延長者依而執達如件)
この本経寺を開山した日真上人は京都の法鐘山妙伝寺の貫順(上人)と日順(上人)は学友である。天正11癸未(みずのとひつじ、きび)年(1583)加藤肥後守清正(加藤清正)と摂州の大坂において一つの寺院を建立した。これを法性山本妙寺と言う。つまり日真上人を招待して開基(寺院開山の基礎をつくった人=開山の祖)としたのである。
同じく天正15丁亥(ひのとい、ていがい)年(1587)、(加藤)清正は肥後の国を所有(支配)した。よって翌年の丙子(ひのえね、へいし)年、大坂の本妙寺を肥後に移す時に日順京師より日真を慕って肥後に赴いた。 文禄元(1688)年の朝鮮の役に加藤清正に従って彼のいる所に渡海し(加藤)清正の陣中において、しきりに丹後守(大村)喜前の懇志(厚志)を受 けて長刀を拝領した。
慶長7壬寅(みずのえとら、じんいん)年(1602)、(大村)喜前の招待に応じて日真上人と同しく肥後の国の本妙寺より当国(大村領)に来た。法華宗(日蓮宗) を普及させ(大村)領内の家臣や民衆(領民)を教化し、邪教を捨て正法(正しい教え)とした。これらは全て日順(上人)の力である。よって同じく(慶長)19甲寅(きのえとら、こういん)年(1614)に寺の領地を賜って一棟の寺院を建立し深重山妙宣寺と称し、そして日順(上人)をもって開基(開山の祖)となった。
同年(1614年)、丹後守(大村)純頼は、昊天大明神(こうてんだいみょうじん)の御神体を嬉野の大定寺より迎えて、日順(上人)および朝長与左衛門を派遣した。これらをもって幸天祭礼の節は今でも当寺(深重山妙宣寺)より本経寺の立合にて執り行われている。 寛永7午(うま)年(1630)11月15日に死去した。
二世(第2代住職)仙乗院日隆 出身地(国)は不明である。明暦元未(ひつじ)年(1655)5月19日に死去した。
三世(第3代住職)智光院日良 出身地(国)は不明である。この(日良上人の)代の時に本経寺と(妙宣寺が、どちらが)本寺(本山)か末寺かの争いが起こって双方訴訟に及んだ結果、.(妙宣寺は)末寺に至った。これから(妙宣寺は)八ヶ寺の執頭となった。
四世(第4代住職)聖境院日逞 出身地(国)は不明である。宝永元申(さる)年(1704)5月29日に死去した。
五世(第5代住職)浄光院日諦 出身地(国)は当国(大村領)郡村矢上の生まれである。在住(在職年間)は25年間だった。享保六丑(うし)年(1721)11 月8日に死去した。
六世(第6代住職)通正院日這 出身地(国)は不明である。在住(在職年間)は17年間だった。当代まては日順大僧都が(賜った)勅許の論旨が当寺(妙宣寺)の宝だったが、本経寺十一世(第11代住職の)日延が宝永6丑(うし)年(1709)死去したため数年の問、無住職となった。十二世(第12代住職の)の日証が享保2酉(とり)年(1717)に入って来るまで、その間9年間住職なしだった。よって、その頃に飯高檀林より恵光と言う僧がしばらく寺の世話をしていたが、これが右の(先に書いた)綸旨を拝見したいとの事で本経寺へよこしたところ、そのままついに返さなかったと言う。(恵光は後で、池上の本門寺に入った) 享保3戌(いぬ)年(1721)11月12日に死去した。
七世(第7代住職)本成院日春 出身地(国)は不明である。在住(在職年間)は17年間だった。享保20卯(う)年(1735)9月9日に死去した。
八世(第8代住職)桓妙院日秀 出身地(国)は当国(大村領)の生まれである。妙経寺より(妙宣寺に)入ってきた。在住(在職年間)は16年間だった。寛延2巳(み)年(1749)2月3日に死去した。
九世(第9代住職)正善院日乗 当国(大村領)時津村の生まれである。妙経寺より(妙宣寺に)入ってきた。当寺(妙宣寺)開山以来、(お城=玖島城に)登城の時には門まて輿(こし)に乗って行けることを許可されていた。当住(日乗上人)は目が見えなかったので(徒歩での登城)途中で多くの侍へ不礼になるようなことを恐れて(登城を)止めていた。そのようなことから、今では輿(こし)に乗って行けることを許可されていたのであった。宝暦6子(ね)年(1756)7月22日に死去した。
十世(第10代住職)恵?院日? 出身地(国)は当国(大村領)郡村黒丸の生まれである。本地寺より(妙宣寺に)入ってきた。在住(在職年間)は8年間だった。安永9子(ね)年(1780)8月8日に死去した。
十一世(第11代住職)能事院日衛 出身地(国)は肥後の熊本の生まれである。俗姓は井上氏だった。在住(在職年間)は12年間だった。文化7午(うま)年(1810)7月22日に死去した。
十二世(第12代住職)恵応院日随 出身地(国)は備中の生まれである。在住(在職年間)は14年間だった。寛政12申(さる)年(1800)1月7日に死去した。
十三世(第13代住職)諦元院日静 当国(大村領)長与村の生まれである。在住(在職年間)は16年間だった。文化六巳(み)年(1809)3月、(妙宣寺の)本堂(及び)庫裏(住居や台所など)がともに(火災のため)焼失した。天保2卯(う)年(1831)10月4日に死去した。
十四世(第14代住職)了義院日耀 当国(大村領)小姓小路の生まれである。本地寺より(妙宣寺に)入ってきた。在住(在職年間)は26年間だった。天保4巳(み)年(1833)4月3日に死去した。
十五世(第15代住職)寛成院日養 当国(大村領)池田分の生まれである。俗姓は小嶋氏であった。天保3辰(たつ)年(1833)6月5日に住職になった。同じく天保12丑(うし)年(1841)9月2日に(妙宣寺の住職を)退任した。
十六世(第16代住職)本事院日明 出身地(国)は下総の生まれである。天保14卯(う)年(1843)9月1日に住職になった。安政2卯(う)年(1855)3月9日、理由あって(妙宣寺の住職を)退任した。
十七世(第17代住職)天真院日寿 当国(大村領)岩船の生まれである。俗姓は吉村氏であった。安政5午(うま)年(1858)2月5日に住職になった。
------------------------(以上で大村郷村記の現代語訳は終了)-------------------------------
大村郷村記関係の補足
上記までの江戸時代に編纂された(大村)郷村記及びその現代語訳の補足や注釈について、はじめにお断りを書いておきます。実は、(大村)郷村記の深重山妙宣寺の項目だけで約2,000文字あります。この文字数や現代語訳に分かりやすい注釈を付けるのは、それと匹敵するくらいの文字数が必要となってきます。そのようなことから、今回は絞った形で3項目のみにしています。(後で追加補足も考えています)
(1)深重山妙宣寺の開山年などについて
先の項目にも書いていますが、この寺は 慶長7年(1602年)に、現在の大村市立郡中学校付近で(以前の郡七山十坊の一つであった極楽寺跡)に当初は仙乗院との名称で開山されたものです。(その後、現在地に引っ越し深重山妙宣寺となった)なお、ご参考までに、同じ大村市内にある萬歳山本経寺は、慶長13年(1608)に本堂などが完成しました。このようなことから深重山妙宣寺は、法華宗(日蓮宗)の寺としては、市内最古と言われています。
(2)現在名称の「丹投石」について
(大村)郷村記内容に「寺を破却せんと山上より投掛し石とて今に本堂の後にあり此石丹投と云」のところです。この件は、現代語訳項目にも分かりやすく書いていますが、この自然石は現在「丹投石」と呼ばれています。この文字の”丹”は「キリシタン」のことで全体の意味は「(寺を壊そうと思って)キリシタンが投げた石」と言うことになろうかと思います。なお、現在この石は、正面の階段を昇って直ぐ(本堂前の)右側(東側)に置いてあります。
(3)十一世(第11代住職)能事院日衛について
この住職は、先の現代語訳項目にも書いていますが、日本哲学の草分け的存在の大分県の三浦梅園と親交があった人です。梅園は妙宣寺を二度ほど訪れ、その中でも安永7年(1778)の訪問は記録が残っていて彼の『帰山録草稿』には妙宣寺について様々な事柄が紹介されています。(私は、この件について既に原稿は9割近く出来ていますので、機会あれば別のページに詳細は載せようかとも思っています)
全体の補足
妙宣寺については、先の項目に書いています歴史や史跡以外にも、まだまだ色々と事柄があります。例えば本堂前にある1887(明治20)年の本堂再建記念碑、大村家と関係ある墓碑、句碑、歴代住職の墓地、日蓮の銅像その他、数多くあります。その一つひとつの紹介は、後で考えるとして今回は省略しています。
また、近年では本堂内で「テラスのイベント」(例えば寄席、カルテットの演奏、お茶のお手前など)も開催されています。(一例として妙宣寺「Terasu 2011 デジマカルテットライブ」ページを参照)これらは、ご住職によれば、「寺にも多くの方に来て頂き楽しんでもらいたい」との主旨だそうです。あと、2012年2月初めには、裏山を檀家さん達が整備され(モミジなどを植林)、さらに景観も良くなった感じです。
今回(2012年8月現在)のページでは、主に大村郷村記、大村市の文化財など書籍類から参照して書いた内容ばかりになってしまいました。後で機会あれば史跡などの紹介も考えていこうと思っています。また、今回、写真を都合により掲載できず文字ばかりになってしまったことは、ご容赦願います。次の更新時には、写真含めて補足、改訂します。 (以上)
(初回掲載日:2012年7月31日、第2次掲載日:2012年8月3日、第3次掲載日:2012年8月9日、第4次掲載日:2012年8月12日、第5次掲載日:2012年8月9日、第6次掲載日:2012年8月13日、第7次掲載日:2012年8月22日、第8次掲載日:2012年8月23日、第9次掲載日:2012年8月24日、第10次掲載日:2012年8月26日、第11次掲載日:2012年8月27日、第12次掲載日:2012年8月29日)
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