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福重の名所旧跡や地形

太郎岳大権現の礎石跡(郡岳頂上に現存する柱石4個)
太郎岳大権現の礎石跡 場所:長崎県大村市 重井田町 (郡岳頂上)

  (大村)郷村記内容が正しければ太郎岳大権現(たろうだけだいごんげん)は、奈良時代初期に開山されました。戦国時代の文明年間に郡岳から多良岳に遷座し、大村純忠時代にキリシタンによる他宗教弾圧事件で焼き討ち破壊されました。江戸時代に池田山に再建され、この当時まで太郎岳時代のご神体はあったと記録されています。

 太郎岳大権現の本坊跡は南斜面の七合目に平地がありますが、郡岳頂上には礎石跡が現存しています。

(左側写真は礎石跡=柱石跡の4個)<右下側の石は土を掘って発見したばかりで土がかぶっているため小さく見えるが実際はもっと大きい>

太郎岳大権現の礎石跡の紹介
 大村市重井田町にある郡岳(826m)の旧称(奈良時代頃まで)は、太郎岳でした。そして、古代肥前国の長崎県央地域は様々な変遷がありますが、彼杵郡の役所として彼杵郡家が置かれました。<詳細は、「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」ページを参照 > その後から郡の名前を頭に付けて、山の太郎岳は郡岳(こおりだけ)、川は郡川(こおりがわ)、村は郡村(こおりむら)と呼ばれるようになりました。

郡岳(826m、旧称は太郎岳)<頂上に礎石跡、写真中央部に本坊跡、左側に坊の岩がある>

 この太郎岳という呼称自体は先の経過からして現在では完全に忘れ去られたものです。しかし、江戸時代に大村藩によって編纂された(大村)郷村記には、太郎岳大権現のことがけっこう詳細に記述されています。その内容をまとめて概要を現代語訳で書きますと、次の<>内の通りです。(大村郷村記や詳細内容を知りたい方は「太郎岳大権現」ページを参照)

  奈良時代の和同年間(708〜715年)に郡岳(826m)の旧称の太郎岳に開山し、その後、戦国時代の文明年間(1469〜1486年)に現在の多良岳(996m)に遷座した。開山したのは僧の行基で、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ)、釈迦(しゃか)、観音(かんのん)の三尊をまつった。今も頂上にまつるための礎石跡が残っている。(ただし、本坊跡や、その関係内容は別途掲載予定のため省略) 

  上記内容で今回のページで取り上げているのは、郡岳頂上に現存する礎石跡(柱石跡)の4個の平たい石のことです。この石(中心点)の間隔は東西と南北間で、ほぼ同じ100〜100数十センチメートルあります。石(表面)の大きさは大小マチマチですが、仮に20cm真四角の柱を建てたとしても十分な広さが4個ともあります。

  風の強い山の頂上ですから、実際あった社(やしろ)は6〜8人くらいで担ぐ神輿(みこし)程度ではなかったと思われます。この大きさでも三尊(弥陀、釈迦、観音)を祀るには、十分な建物だったと想像しています。

 あと、太郎岳大権現の宗教は、(大村)郷村記の書き方や本坊跡などの関係から考えて神仏習合(神仏混淆)だと思われます。その意味で分かりやすく言いますと、郡岳の南東側斜面七合目にある本坊跡との関係で、この頂上の礎石跡にあった社は上宮みたいな位置付けでしょう。

大村郷村記の内容
  太郎岳大権現の礎石跡(柱跡)については、江戸時代編纂の(大村)郷村記の福重村に記述されています。先に全文を知りたい方は、「太郎岳大権現(謎だった古代の寺院跡発見と紹介)」ページの「1)大村郷村記関係記述」からご覧願います。このリンク先ページには「郡岳」全体のことが書いてありますので、下記には太郎岳大権関係のみを抜き書きしています。

 さらに郡岳頂上に現存する礎石跡については、太文字部分にご注目願います。また、原文は続き文のようになっていますが、見やすいように下記「」内は、私の方で改行や区切りを入れています。参照・引用される場合は、必ず原文から、お願いします。

太郎岳大権現の礎石跡4個(4個ともA3サイズ前後位の平たい石ばかりで中心点を計測すると東西・南北の長さはピッタリ同じである。今でもそのまま社が建てられるほどである)

「 (前略) 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す

  今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 当山鎮座の時太郎岳権現と称す文明の比皆是山の奥太郎岳に遷座して太郎岳大権現之唱ふ 万治年中池田の里に再興ありて多羅山大権現と号す 由来大村神社の条下に詳也 (後略) 」

・現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代語訳しますと、下記< >内の通りです。素人訳なので、あくまでも参考程度にご覧願います。なお、太郎岳大権現の礎石跡関係は、
太文字直しました。()内などは、上野の補足や注釈です。

  <  (前略) かつて、元明天皇の治世の和銅年間に管原寺の最高位の僧侶である行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ)、釈迦(しゃか)、観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている。 

  当山(後年の郡岳のこと)鎮座の時には太郎岳大権現と呼ばれていた。文明年間(1469〜1486年)の頃に萱瀬山の奥太郎岳に遷座したため、これを太郎岳大権現と呼ばれた。万治年間(1658〜1660年)池田の里に再興(再建)されて多羅山大権現と言っている。由来は大村神社の項に詳細書いてある
 (後略) 

郡岳(826m)頂上(三角点がある)

補足
 郡岳にあった太郎岳
大権現は、上記の通り、戦国時代の文明年間に現在の多良岳に遷座しました。その後、多良岳においてキリシタンの他宗教弾圧事件によって焼き討ち・破壊攻撃を受けるなど様々な変遷があります。

 太郎岳大権現は、先の通り他の山へ遷座したためか、地元の福重・松原などでは江戸時代に編纂された(大村)郷村記内容以外に人々の記憶から忘れ去れていったのかもしれません。

 しかし、人の記憶は薄れても古代から残る、この礎石跡(柱石跡)、南東側斜面に残る平地の本坊跡、さらにはその本坊から由来している坊岩(ぼうのいわ)や泉など、太郎岳大権現を物語る史跡は確実に今も残っています。特に、郡岳頂上部に現存する今回紹介の礎石跡(柱石跡)は、登山さえされれば誰でも確認できるものです。

 私は改めて思ったのですが、登山部とか健脚の方ならば郡岳は、比較的短時間で登れる山かもしれません。しかし、「山の頂上(826m)に人力以外何もなかった古代に、よくぞ柱石を設置し社(やしろ)を建て、そして三尊を祀っていたのだなあ」と関心しました。

 宗教心がなせることと言えばそれまでですが、開山当初から遷座するまでの期間、多くの修験者を招き入れた何かの魅力や霊力みたいなものが太郎岳大権現にあったのかもしれません。

  郡岳の頂上部は、他市とも接していなくて山全体がほぼ大村市内にあります。また、頂上や坊岩からの展望が素晴らしく春夏秋冬、交通アクセスが便利だということもあって人気の山でもあります。あと、太郎岳大権現礎石跡(柱石跡)は、福重地区で最も標高の高い史跡でもあります。機会あれば、郡岳登山を楽しまれるのは、いかかでしょうか。

関係ページ:「太郎岳大権現(謎だった古代の寺院跡発見と紹介)<太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された>」 、 「坊の岩

(初回掲載日:2013年7月14日、第2次掲載日:2013年7月16日、第3次掲載日:2013年7月22日、第4次掲載日:2013年7月23日、第5次掲載日:2013年7月24日)



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