<補足説明>
・所在地関係
古松の馬頭観音の現在地は、大村市中里町、中里公民館から南東方向へ直線(目測)で100m弱、道路脇(民家の石垣の前)にある。2011年12月13日、私は地元の方の許可を得て、拓本作業、巻尺計測、その他の調査をした。その時に、この馬頭観音を祀っておられる近所の方々が沢山見学に見えられた。
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中央:古松の馬頭観音 (右側は石灯篭) |
その機会に、いくつかのことを教えて頂いたが、中には「この馬頭観音の設置場所は転々と変わった」、「昔から何回も変わったみたいなので、元々どこにあったのか、今では分かっている人がいない」などの話もあった。
私は、大村郷村記で事前に調べていたので、江戸時代当時(現代語訳)「上鈴田古松の古松権現に立像の馬頭観音があった」ことは知っていた。しかし、拓本作業して正確に碑文から建立年を確認するまで、「たぶん、江戸時代当時の古松権現(現在の鈴田大神宮)にあったものであろう」(後の項目参照)との認識だった。ご参考までに、古松の馬頭観音の現在地と古松権現(現在の鈴田大神宮)との距離は、ほぼ東西一直線(目測)で約500m離れている。
ただし、明治・大正・昭和前期などに建立されたものを除けば、江戸時代(それ以前も含む)建立の馬頭観音の場所は、集落(町や村)の外れ、あるいは道路脇に多くあったと言われている。そのようなことからすれば、江戸時代当時、村の中心地と言うべき古松権現(現在の鈴田大神宮)に何故あったのだろうとの疑問は持っていた。
この所在地の変遷を推測で考えてみると、「寛延4 (1751) 年に古松権現にあった」ことは大村郷村記通りで確かなことととしても、もしかしたら、それ以前は別の場所で建立された可能性も否定できないと思った。つまり、どこかから運び込まれたとのことだ。さらに年代不明ながら、その後も転々と所在地が変わって現在地にあると思われる。
なお、この「大村の馬頭観音」(もくj)紹介シリーズでは、通常、名称について、建立場所(建立者の在住場所)もしくは現在地名で多く書いている。しかし、今回の古松の馬頭観音については、土台に彫ってある碑文などで場所や建立者が特定できないので、大村郷村記の記述内容「上鈴田古松 古松権現 馬頭観音 立像」から、その名称をとった。
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古松の馬頭観音 土台の碑文(拓本) |
・土台の碑文
古松の馬頭観音の土台部分には、碑文がある。それは、右側の拓本写真を参照願いたい。ここには、下記の太文字が彫られている。原文は、写真でご覧の通り、縦文字の3行だが、ホームページ用に横書き1行に直している。
寛延四辛未天 馬頭観音 十一月十七日
上記の碑文を現代語訳すると、次の「」内と思われる。
「(古松の)馬頭観音を寛延4 (西暦1751) 辛未(かのと ひつじ)年11月17日に建立した)」
私の感想だが、この碑文は、まるで書家が揮毫(きごう)されたような達筆で、力強く分かりやすい。また、碑文を彫った石工の高い力量も感じられた。
あと、ご覧の通り、この碑文には、最初に設置された地名、建立者などが彫ってない。しかし、このページ冒頭のデータ部分で、大村郷村記の記述を書いている通り、「上鈴田古松 古松権現 馬頭観音 立像 寛延四年辛未建立」の馬頭観音は、このことと推測した。なぜなら、先の太文字で「馬頭観音 寛延四年辛未」は、この碑文とも一致しているからだ。また、立像という形も同じである。ただし、大村郷村記には、建立月日まで書いてない。
ご参考までに、碑文の場合、当然全部ではないが、「馬頭観世音」と彫る場合が多い。しかし、今回の碑文も大村郷村記も同じ、馬頭観音との表記である。以上のような一致点の多さから、私は大村郷村記に記述されている内容と、この馬頭観音は同一のものと、このページで紹介している。また、(2016年現在)同じ建立年のものは、鈴田地区にはないようだ。
今後、同一年建立の馬頭観音が同地区で新たに発見されたら、それは、上記の前提が全て変わるので、このページの全面改訂も含めて検討したいので、ご了承願いたい。
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2017年1月3日、第二次掲載日:1月6日、第三次掲載日:1月7日、第四次掲載日: 月 日 )
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