<補足説明>
右下側写真は、高野の馬頭観音の蓮華座下部に彫られている碑文の拓本である。上表のデータ部分と重複した記述になるが、改めて書くと、その文字は、次の「」内の太文字である。
「 文化五戊辰 十二月 天下泰平 奉納大乗妙典日本廻國 国土安全 今富村 行者 安次郎 」
上記の現代語訳は、次の<>内の青色太文字である。<天下泰平、国土安全を祈願し日本諸国を廻って法華経を奉納する。文化5 (1808 )年12月に今富村の修行者の安次郎が建立した>
この碑文は、達筆で綺麗な文字である。なおかつ画数の多い文字なども、器用に彫られている。また、この碑文内容は、様々な意味からも注目に値する。
まず、その第一として現在では、馬頭観音は直ぐに「馬の神様」と勘違いしておられる方も多い。確かに、江戸時代頃から、その意味が込められて建立され、長年その主旨通りに各地で祀られてもきた。だから私自身も、その主旨を否定はしない。しかし、国語辞典の大辞泉に、次の<>内が書いてあることも見て欲しい。
<馬頭観音=六観音・七観音の一。宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩(ぼさつ)。魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。馬頭明王>
この辞典をでも分かる通り、ただ単に「馬頭観音=”馬の神様”」だけでないことが、良く分かる。上記高野の馬頭観音碑文は、「馬の神様」的な一文は、何も彫られていないのである。現在から思うと、ここの碑文にある「天下泰平、国土安全」などは、やや大きな願い事とも思われる。しかし、先の事典の意味から解釈すれば、決しておかしいことではなく、むしろ古来からある馬頭観音の本来主旨から発展した祈願とも推測される。
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高野の馬頭観音
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このような馬頭観音の意味が碑文として彫られている石像は、(2014年現在の調査段階で)大村市内唯一、この高野の馬頭観音だけと言っても過言ではなく、その意味からすれば注目に値する。
第二として、<今富村の修行者の安次郎が建立した>部分も、気になる点である。それは、私の推測ながら名前の彫り方からして、江戸時代の百姓(農業)、もしくは武士ではない別の職業だった人が隠居して、修行者(日蓮宗の信者)になった後で建立したのかもしれない。ただ、個人建立自体は、江戸時代も近代でも、いくつかの石像があるので珍しいことではない。
私が気にかけているのが、このような馬頭観音を制作するには、それなりの財力が必要だったし、かなり地域で影響力があった人とも思えることである。(2014年現在の調査時点で)この高野の馬頭観音は、福重地区(10町内)と限定すれば、最古の建立である。近代になって郷(町)単位や馬仲間の共同建立が、一気に増えている。江戸時代は、このような個人建立が多かったのかもしれない。
あと、石像本体の特徴点になるが、高野の馬頭観音の大きさは、福重地区内最大クラスである。彫りの深いレリーフ調の石像は、まるでインド彫刻にも似ている。江戸時代建立の馬頭観音では、水準の高い出来栄えであろう。江戸時代の石工(職人)の真骨頂が、遺憾なく発揮された石像であるとも思われる。
(初回掲載日:2014年7月16日、第二次掲載日:7月21日 )
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