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2008年2月16日大村市郷土史講演会・概要報告
米はなくても芋・いわし! 江戸時代・大村人の食生活
主   な   内   容
状 況
2007年度、大村市郷土史講演会の概要報告
米はなくても芋・いわし! 江戸時代・大村人の食生活
講師 有薗 正一郎 氏(愛知大学文学部教授)
 
・パネルディスカッション内容の一部含む
講演会・会場(パネルディスカッション中)

2007年度、大村市郷土史講演会の概要報告
 2008年2月16日13時00分から16時40分まで大村市のさくらホールにて2007年度の大村郷土史講演会(主催:大村史談会 大村市教育委員会)が開催されました。

  テーマは『
米はなくても芋・いわし! 江戸時代・大村人の食生活』でした。開会挨拶の後、 有薗 正一郎 氏(愛知大学文学部教授)の講演がありました。江戸時代の人口の推移、農産物、食糧、飢饉、大村藩領内の状況など具体的なデータや図版を用いて詳細に教えて頂きました。

 また、講演後、パネルディスカッションに入りコーディネーターの久田松 和則(富松神社宮司)さんを始め 、 有薗 正一郎さん、山下 常道 さん(元大村市農協組合長) 、熊野 道雄さん (大村史談会会員)によっておこなわれました。

 全体通して江戸時代の大村藩だけでなく、戦後も含めて大村人が食糧などに創意工夫して様々な難関を乗り越え今日があることを語られました。特に、米だけでなく、雑穀類、芋類、イワシをはじめ漁獲類も豊富に摂取し、他の地域が飢饉で餓死者が出て人口減になっていたにも関わらず、この大村では犠牲者が出なかったばかりか、ずっと人口が増えたきたため人口抑制みたいなこともまでしていたのは、ちょっとした驚きでした。

食糧問題の多い現在において非常にタイムリーなテーマだったのでは
 今回の郷土史講演会は、日本の食糧自給率の問題、外国からの輸入食糧問題など、「食の安全」が声高に叫ばれる現代において非常にタイムリーなテーマで、考えさせられることが多かったと思います。また、現代の日本人、当然、長崎県や大村においても何か本当に大事なことを忘れかけていることが、結局は今日の問題を引き起こしているのではないかとの警鐘とも受け取れました。講演者や関係の皆様のご努力に敬意を表します。


 このページは、歴史事項ですから私としてもできるだけ間違わないように記述してみようと試みましたが、もしも正しくなかったら、その原因は先生方の講演内容や提示して頂いた資料ではなく、私の記述間違いと思って頂けないでしょうか。 また、ホームページ掲載分については、今後も改訂が可能ですから、直していくことをあらかじめ申し上げておきます。もしも、当日講演会場に足を運ばれ、さらにはこのページを閲覧された方で、何か指摘事項などありましたら、どうか教えて頂けないでしょうか。どうぞ、よろしく、お願い申し上げます。
 
(初回掲載日:2008年2月24日)

関係ホームページの紹介  薩摩芋の栽培は肥前が早かった  瑞穂の国(穀物自給率問題など)


米はなくても芋・いわし! 江戸時代・大村人の食生活   講師:有薗 正一郎 氏(愛知大学文学部教授)
  
・パネルディスカッション内容の一部含む  

 (最初からお断りを書いておきますが、当初講演内容の概要を講師の話された内容にそって掲載しようと思っていました。しかし、肝心のICレコーダーが私の不手際から少ししか録音されておりませんでした。お恥ずかしい限りです。それで、当日会場で配布された資料や私のノートの走り書きから少しだけまとめたいと思っています。そのような関係から、今回のページは話された順番とか詳細な内容ではなく、簡単な感想文に若干の補足が書いてある程度と思って見て頂けないでしょうか。また、有薗先生のお話だけでなく4人で討論されたパネルディスカッション内容も一部含んでいます

  講演内容は各種の地図、資料や図表をスクリーン上に示しながら、詳細かつ分かりやすく江戸時代当時の全国及び大村藩領の食糧事情を明らかにされました。大村藩領内についてのデータは、当時編纂された郷村記(大村郷村記)でした。この中で特に特徴的な事柄を順不同で列記します。(念のため、下記は番号付き箇条書き風にしていますが、これは、私が見やすいようにしているだけで話の順番ではありません)

大村藩領各村の1人当たり米の年間可能消費量
大村藩領における日常食の基本食材と人口との関わり模式図

1)江戸時代九州などは米だけでなく雑穀、芋も生産、飢饉に対応していた
 江戸時代、日本人の食糧(主食など)は、例えば東北や九州別あるいは国(藩別)などで、そこの地域で収穫できる作物の違いから大きく違っていた。どちらかと言うと東北関係は米に頼る比率が大きく、逆に九州は米だけでなく雑穀や芋などの割合が大きかった。だから飢饉の時には、東北などが餓死者や犠牲者が多く出た。九州などは米が獲れなくても雑穀、芋などで飢えをしのげる場合もあった。

2)大村湾岸は米中心、それ以外の地域は雑穀、芋も生産していた
 大村藩領(48か村あった)内で農産物の耕作状況は、大村湾沿いの平野部は米が多く、それ以外の丘陵地帯は米もしくは雑穀、芋などが収穫されていた。

3)大村藩領各村の1人当たり米の年間可能消費量
 (右上図は会場で配布されたもの)1884(明治17)年の農業就業者1人当たり米の年間可能消費量に基づき大村藩領各村の1人当たり米の年間可能消費量の全国平均0.92石と標準偏差値0.48の数値から作成されたものである。なお、斜線部分は丘陵及び山間地を表している。

 図の中のアルファベットは0.44石以上0.92石未満(全国平均−標準偏差未満)、は0.44石未満(全国平均−標準偏差以上を示している)

 この図で概要分かることは大村藩領は全ての地域で全国平均以下だった。(注:現在の大村の郡地区や東彼杵町側に一部があるが、この地域は縄文・弥生時代から穀倉地帯。それ以外の地域は水田はあったが、穀倉地帯と言うほどではなかったことを表してもいる)

4)人口増加対応策は雑穀・芋類でまかなっていた
 江戸時代、全国の人口推移は一部の地域を除き飢饉の影響や各藩の経済に与える関係もあって微妙な状況推移で増加はしたが、毎年ずっと何%づつプラスみたいな増え方ではなかった。その中で大村藩は資料でも増えていることが分かるとおり、増えてきた。人口増加を可能にしたのは米の増産だけではなく、むしろ雑穀や芋類を豊富に食べていたからではないかと思われる。

 さつま芋は米が飢饉だから直ぐ植えつけるやり方では収穫できない。作付は夏からで米の作況とは関係なしに植えられているので、芋類を主食の一つとして植えていた。

5)さつま芋の長所と短所
 サツマイモの長所は、主に耕作地単位当たりの収穫量が大きい、天候に左右されにくい(日照りにも強い)、カロリーも豊富で甘みもあり主食にもなるなどである。

 逆に短所として、タンパク質が少ない、水気が多く、そのため保存に注意が必要、重量があるので運搬しにくい、甘いので食べ飽きるなどがある。特に、保存温度がなかなか難しくて冬の寒さに気を付けていたと思われる。

6)サツマイモは主食になっていた
 はたして芋類は江戸時代に主食になっていたかどうか。この点について先ほど、サツマイモの短所して「甘いので食べ飽きる」と言ったが、例えば副食にイワシなどの魚介類や味噌汁を食べれば飽きることはない。郷村記によれば大村領内ではイワシの漁獲量も多かった。

 (この件について、有薗先生は自分で収穫されたサツマイモを正月はさんで約2か月間三食とも食べておられることを写真付きで副食含めて具体的に紹介されていた。副食を工夫すれば食べ飽きることはなく、この主食を10年近く続けておられるとのことである。さらに夕食に芋焼酎、ワイン、チーズがあれば、なお良しとのことであった)

サツマイモ(イメージ写真)

 主食だけではなく、甘味があるのでおやつで食べることにも役立ったのではないか。このように江戸時代から大村領内では、サツマイモなどの芋類がイワシ、味噌などの副食と併せ十分主食の役目を果たしていたと思われる。

まとめ
 江戸時代、全国の他の地域よっては人口があまり増えなかったのに、大村藩などは増えきた。その要因は米だけでなく雑穀類、芋類も生産し、また日常不断に主食としてとっていたため、人口増加になっても食糧不足にならずに対応できた要因と思える。

・パネルディスカッション内容の一部
 コーディネーターの久田松さんの進行で始められたパネルディスカッションも食糧自給率や食の安全問題などを目の当たりにしている現代人にとって傾聴に値する話が続きました。

  山下さんからは、戦後戦後を通して大村においての食糧生産状況の推移、大村人が工夫して食べていた食の豊富さを具体的に食品名あげて話されました。

 熊野さんからは、会場で配布された「大村藩の石高(実高)・人口・人口政策等一覧表」を使いながら、江戸時代の大村藩は他の地域に比べ、ずっと人口が増え、そのため大村藩は人口抑制のため結婚制限年齢の施策などがあったことなどを話されました。


  (注:有薗先生のお話の詳細を知りたい方は、著書『近世庶民の日常食』、海青社2007年4月5日発行をご覧下さい)

関係資料の補足:(下記は『大村史話 中巻』大村史談会1974年5月15日発行、198ページより。執筆は志田 一夫 氏。<>内が引用部分、太文字や送り仮名は上野が付けた)

< 享保の大飢饅と大村藩の甘藷
 享保十七年(一七三二)西日本の四国・九州が蝗(いなご)の害で大飢饅となって死者五万人、死に瀕(ひん)した者が十万 人以上にもなったという苛烈な大惨事が起った。幕府 は十二年に三千両を被害地に貸与し、更に幕府の米倉二百石を施与して餓死を防いだ。 その折幕府が九州各藩の行政を多年にわたってひそかに監視させていた天領日田の代官に命じて、被害を調査させたところ、肥前の大村藩だけは甘藷(いも)のおかげ で一人の餓死者も出していないという事がわかった。 この報告に驚いたのは幕府であったが、これを知った大岡越前守忠相は、早速その種いもを江戸に送るよう にと大村藩の江戸屋敷に懇請した。(大村見聞集)  

  唐芋=サツマイモは、薩摩よりも10年も早く1615年に平戸に輸入、栽培され、それから一気に大村を含む肥前全域に広まっていたと思われます。その「大村芋」か「肥前芋」(=唐芋=サツマイモ)が上記の引用文の通り、1732年の享保の大飢饉時に大村藩領内の領民の命を守ったと言うことです。 (この項の関連ページとして「薩摩芋の栽培は肥前が早かった」もご参照下さい)

私の補足:「芋飯」について
 芋の主食について、上野からも過去の経験上から補足があります。私の実家は農家で子供の頃(1960年代、昭和30年代)、祖母や母がサツマイモのとれた後、たまに「芋飯(いもめし)」をつくってくれました。裏覚えですが大体、米6:芋4の割合で炊き方は通常と同じだったと思います。子どもの時は甘味を欲しがると思いますが、これはこれで美味しかったと思います。

 このような食べ方なら、米も芋も同時に食べられると言う訳です。この方法は芋の量が4割近くになりますから、米の量も通常よりは少なくて済みます。つまり、有薗先生のような”完全な芋主食”の食べ方もありますが、このような「芋飯」みたいな食べ方でも随分と米の消費量は少なくて済むのかなあと思いました。戦前や江戸時代でも農家では、このような食べ方もあったのではとも想像しています。

(第2次掲載日:2008年3月12日)
関係ホームページの紹介  薩摩芋の栽培は肥前が早かった  瑞穂の国(穀物自給率問題など)

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