米はなくても芋・いわし! 江戸時代・大村人の食生活 講師:有薗 正一郎 氏(愛知大学文学部教授)
・パネルディスカッション内容の一部含む
(最初からお断りを書いておきますが、当初講演内容の概要を講師の話された内容にそって掲載しようと思っていました。しかし、肝心のICレコーダーが私の不手際から少ししか録音されておりませんでした。お恥ずかしい限りです。それで、当日会場で配布された資料や私のノートの走り書きから少しだけまとめたいと思っています。そのような関係から、今回のページは話された順番とか詳細な内容ではなく、簡単な感想文に若干の補足が書いてある程度と思って見て頂けないでしょうか。また、有薗先生のお話だけでなく4人で討論されたパネルディスカッション内容も一部含んでいます)
講演内容は各種の地図、資料や図表をスクリーン上に示しながら、詳細かつ分かりやすく江戸時代当時の全国及び大村藩領の食糧事情を明らかにされました。大村藩領内についてのデータは、当時編纂された郷村記(大村郷村記)でした。この中で特に特徴的な事柄を順不同で列記します。(念のため、下記は番号付き箇条書き風にしていますが、これは、私が見やすいようにしているだけで話の順番ではありません)
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大村藩領各村の1人当たり米の年間可能消費量
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大村藩領における日常食の基本食材と人口との関わり模式図
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1)江戸時代九州などは米だけでなく雑穀、芋も生産、飢饉に対応していた
江戸時代、日本人の食糧(主食など)は、例えば東北や九州別あるいは国(藩別)などで、そこの地域で収穫できる作物の違いから大きく違っていた。どちらかと言うと東北関係は米に頼る比率が大きく、逆に九州は米だけでなく雑穀や芋などの割合が大きかった。だから飢饉の時には、東北などが餓死者や犠牲者が多く出た。九州などは米が獲れなくても雑穀、芋などで飢えをしのげる場合もあった。
2)大村湾岸は米中心、それ以外の地域は雑穀、芋も生産していた
大村藩領(48か村あった)内で農産物の耕作状況は、大村湾沿いの平野部は米が多く、それ以外の丘陵地帯は米もしくは雑穀、芋などが収穫されていた。
3)大村藩領各村の1人当たり米の年間可能消費量
(右上図は会場で配布されたもの)1884(明治17)年の農業就業者1人当たり米の年間可能消費量に基づき大村藩領各村の1人当たり米の年間可能消費量の全国平均0.92石と標準偏差値0.48の数値から作成されたものである。なお、斜線部分は丘陵及び山間地を表している。
図の中のアルファベットCは0.44石以上0.92石未満(全国平均−標準偏差未満)、Dは0.44石未満(全国平均−標準偏差以上を示している)
この図で概要分かることは大村藩領は全ての地域で全国平均以下だった。(注:現在の大村の郡地区や東彼杵町側に一部がCあるが、この地域は縄文・弥生時代から穀倉地帯。それ以外の地域は水田はあったが、穀倉地帯と言うほどではなかったことを表してもいる)
4)人口増加対応策は雑穀・芋類でまかなっていた
江戸時代、全国の人口推移は一部の地域を除き飢饉の影響や各藩の経済に与える関係もあって微妙な状況推移で増加はしたが、毎年ずっと何%づつプラスみたいな増え方ではなかった。その中で大村藩は資料でも増えていることが分かるとおり、増えてきた。人口増加を可能にしたのは米の増産だけではなく、むしろ雑穀や芋類を豊富に食べていたからではないかと思われる。
さつま芋は米が飢饉だから直ぐ植えつけるやり方では収穫できない。作付は夏からで米の作況とは関係なしに植えられているので、芋類を主食の一つとして植えていた。
5)さつま芋の長所と短所
サツマイモの長所は、主に耕作地単位当たりの収穫量が大きい、天候に左右されにくい(日照りにも強い)、カロリーも豊富で甘みもあり主食にもなるなどである。
逆に短所として、タンパク質が少ない、水気が多く、そのため保存に注意が必要、重量があるので運搬しにくい、甘いので食べ飽きるなどがある。特に、保存温度がなかなか難しくて冬の寒さに気を付けていたと思われる。
6)サツマイモは主食になっていた
はたして芋類は江戸時代に主食になっていたかどうか。この点について先ほど、サツマイモの短所して「甘いので食べ飽きる」と言ったが、例えば副食にイワシなどの魚介類や味噌汁を食べれば飽きることはない。郷村記によれば大村領内ではイワシの漁獲量も多かった。
(この件について、有薗先生は自分で収穫されたサツマイモを正月はさんで約2か月間三食とも食べておられることを写真付きで副食含めて具体的に紹介されていた。副食を工夫すれば食べ飽きることはなく、この主食を10年近く続けておられるとのことである。さらに夕食に芋焼酎、ワイン、チーズがあれば、なお良しとのことであった)
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サツマイモ(イメージ写真) |
主食だけではなく、甘味があるのでおやつで食べることにも役立ったのではないか。このように江戸時代から大村領内では、サツマイモなどの芋類がイワシ、味噌などの副食と併せ十分主食の役目を果たしていたと思われる。
まとめ
江戸時代、全国の他の地域よっては人口があまり増えなかったのに、大村藩などは増えきた。その要因は米だけでなく雑穀類、芋類も生産し、また日常不断に主食としてとっていたため、人口増加になっても食糧不足にならずに対応できた要因と思える。
・パネルディスカッション内容の一部
コーディネーターの久田松さんの進行で始められたパネルディスカッションも食糧自給率や食の安全問題などを目の当たりにしている現代人にとって傾聴に値する話が続きました。
山下さんからは、戦後戦後を通して大村においての食糧生産状況の推移、大村人が工夫して食べていた食の豊富さを具体的に食品名あげて話されました。
熊野さんからは、会場で配布された「大村藩の石高(実高)・人口・人口政策等一覧表」を使いながら、江戸時代の大村藩は他の地域に比べ、ずっと人口が増え、そのため大村藩は人口抑制のため結婚制限年齢の施策などがあったことなどを話されました。
(注:有薗先生のお話の詳細を知りたい方は、著書『近世庶民の日常食』、海青社2007年4月5日発行をご覧下さい)