時の話題として
(注:この郷土史ページは普通、大村の歴史的な事柄を書くのですが、今回は見出し(タイトル)含めて「大村の話題」としています。その理由は、この猪解石(ししときいし)は、(大村)郷村記などの古記録にないからです。ただし、1984(昭和59)年3月発行の萱瀬物語第一巻(萱瀬開発振興会・萱瀬物語編さん委員会)64ページの久良原地区図の中に「猪解石」の文字によって場所が図示されています。
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鉄製の檻(おり)に捕獲された猪(いのしし)
(2011年9月24日、捕獲直後に撮影)
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あと、なぜ今回取り上げているのか、その理由は秋になり例年のことながらテレビなどで猪(いのしし)や猪被害などの報道があり、より身近なことと思われるからです。私も子どもの頃、町内周辺が山なので1回は猪を見たと思っています。また、近年では2011年9月24日、鉄の檻(おり)にイノシシが捕獲された直後(右側写真)撮影をするために久しぶりに見て、その突進力には迫力を感じました。
イノシシ被害が増大
しかし、近年の猪の話題は私の子どもの頃の比ではありません。(大村弁で)「あそこにイノシシがいたバイ」、「うちの畑の薩摩芋がやられた(被害にあった)とよ」、「稲もミカンも食べるけんが、ひどか(被害が大きい)バイ」、「秋だけでなく夏にもイノシシが捕獲されたげな」、「お金が要るばってんが、猪対策の電気コードを畑回りに引いたとよ」など、毎年のように多くの場所で話題に事欠きません。
猪は昔もいましたし、猪被害もありましたが、何故、近年になって急に増えたのでしょうか。警戒心の非常に強いイノシシですから昔は、集落近くより山間地に住んでいました。それが人の住んでいる、田畑が多い山里で近年は良く見かけられるようになりました。その理由は沢山あるようです。
農家の方々にお聞きすると、(大村弁で)「元々、イノシシは繁殖力が強よかとよ」、「イノシシが住んどった山ばっかりじゃなくて耕作放置の田畑も増えたけんが、まっと(もっと)住みやすくなったと」、「町(集落)の方が食べ物が沢山あっけんが山から下りて来たとよ」、「昔からいる猪だけじゃなくて普通の豚と交配して出来た猪豚(イノブタ)を誰かが放して増えたと聞いたバイ」、「とにかくイノシシは何でも食べるけんが田んぼや畑などは大好物ばっかりじゃろうなあ」などと話されていました。
当然、この話しだけが近年、猪が増えた原因ではないと思われますが、結局は人の造り出した要因も大きいと思われます。特に、日本の農業を大切にしない政治のツケから、結局は後継者不足、農業従事者の高齢化などにより一層、耕作放置の田畑が増えてきている=イノシシが集落近くに住みやすい条件になっているようにも思えます。
あと、私は郷土史調査などで大村の山林を良く歩きますが、イノシシは要注意です。古来から”猪突猛進”(ちょとつもうしん)という言葉もあるくらいですから、あの迫力のある猪の突進力や牙で当てられたら人間は大怪我するのではないでしょうか。今回は、このようなイノシシにまつわる話題に関連して萱瀬地区久良原の青椎滝近くにある猪解石をご紹介します。
民間伝承として
この項目は、既に上記に同じ内容を一部書いていますので重複した内容になりますが、あらかじめご了承願います。この猪解石は、江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの古記録に書いてありませんので、結論から先に言えば今回の「猪解石(その1、その2)は萱瀬地区の久良原に伝えられてきた民間伝承事項」です。そのため、いつの時代から、この二つの石が猪(イノシシ)解体用に用いられてきたのか不明です。
ただし、当時の村のことを詳細に記述された(大村)郷村記と言えども、全ての事柄を網羅して書いている訳ではありません。(大村)郷村記は神社仏閣、石仏、由緒ある名所旧跡などは詳しく書いていますが、中には記録されていない事項もあります。一例として(大村)郷村記より早い時期に作成されたと思える大村藩領絵図には、キッチリ描かれているのに(大村)郷村記に記述されていない城址などもあります。
そのようなことから、たとえ江戸時代頃より使用されてきた可能性のあるものでも(大村)郷村記に書いていない場合もあります。そのため、私が推測するのに相当古くから、この猪解石は、この場所にあった可能性もあると言えます。その石の大きさも二つともタタミ1畳より大きいので、そう簡単に動かせるものでもありません。自然にあって水使用上便利な場所で、使いやすそうな石が選ばれたものと想像しました。
猪解石その1、その2の大きさと使い方
二つの猪解石は、3メートル位離れた距離にあります。まずは、猪解石その1、猪解石その2について概略紹介をします。猪解石その1は、青椎川にある青椎滝から5メートルほど上流部の右岸側の畑脇にあり、真っ平らで大きさがタタミ1畳以上あります。
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猪解石その2
(この石は青椎川の右岸端にある。青椎滝も直ぐ近くの下側にある。大きさはタタミ1畳強である。この写真には写っていないが中央右上方向に猪解石その1がある)
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猪解石その1
(この石は青椎川の右岸側にある畑の端にある。大きさはタタミ1畳以上ある、ほぼ真っ平らな石である。この写真には写っていないが右下側方向に猪解石その2がある)
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猪解石その2には、青椎滝から数メートル上流部の川の右岸端にあるタタミ1畳強の大きさがあります。大きさや石の厚さなどいついては各々の説明文を参照願います。なお、紹介順序ですが、今回便宜上、猪解石その2、猪解石その1の順番です。
猪解石その2について
・猪解石その2の大きさ:横幅約340cm、奥行き約170cm。(目測で厚さ=高さ80cm位)
私の想像ですが、この石は川の中にあるためイノシシを最初に水を使い、血などを流しながら大まかに解体する時に使われたと思われます。(私の見た範囲内ですが、イノシシは体重60kgとか80kgで、大きく解体するにも、それなりの広さと水などは必要と思えました)
右側写真(猪解石その2)中央部のへこんだ所にイノシシを置き、水で流しながら、ここでは大まかに解体していったと思われます。そして、血のりや汚れなどを落としながら、切った肉類を右上側の真っ平らな猪解石その2に運んで行ったのではないかと思われます。
猪解石その1について
・猪解石その1の大きさ:横幅約205cm、奥行き約180cm、厚さ=高さ33cm。
上記の大きさや、右側写真(猪解石その1)でも分かる通り、タタミ1畳以上もある、ほぼ真っ平らな石です。この石は、先に紹介しました川の中にある猪解石その2で大まかに解体したイノシシを直ぐに並べた所と想像しました。
つまり、川の中の石で頭、胴体、足などと大きく切った部位を並べ、この石は広いので自宅などに持ち帰るためにカゴなどに入れやすいように、さらにもう少し切り分けに使ったと思えました。また、例えば3人でイノシシを仕留めたら3等分するために使われたかもしれません。ただし、いくら広くて平らな石でも、料理用とか細かく肉を切ったところではないとも思います。
私は、関西在住の頃、ボタン鍋(イノシシ肉をまるでボタンの花みたいにして皿に盛り付け、それを味噌仕立ての鍋に入れて食べる料理)を見たことがありますが、あのように花みたいに猪肉を切るには、板前がまな板や包丁を使って切らないとできないと思いました。
以上のようなことから、あくまでも、猪解石その1、猪解石その2は、イノシシを大まかに解体し、各自で持ちかえりやすいように切り分けた程度に用いられたと想像しました。このようなことを地元の方に話しましたところ、「それは、そうだろう」と言っておられました。
あとがき
このページ冒頭に書きました通り、今回は「大村の話題」としての猪解石でした。私の地元・福重地区に伝わる民間伝承の場合、中には真偽のほどが問われる事柄もいくつかありました。そのようなことから猪解石について、たとえ近代の書籍ながら萱瀬物語第一巻(萱瀬開発振興会・萱瀬物語編さん委員会)の中に書いてあるとしても、私なりに調べ地元の方へもお聞きしました。
今回の場合、二つの石とも畳より大きなものだったので大昔から移動していないことは推測されると先に書いた通りです。私の想像ながら二つの石をイノシシ解体時に、どのように使用したかも既に書いた通りで、それらについて地元の方も同様だろうと言っておられました。
ただ、私はイノシシが回数多く捕れたとは思っていません。また、イノシシは体重60kgとか80kgとか、けっこう重たいですから、あくまでも青椎川や青椎滝周辺で捕れた時に、この猪解石が用いられたのではとも思っています。ここよりも遥か遠くで捕れた場合は、その重さから他の川筋で処理されたのだとも想像しています。
捕獲の回数が多くなかったかもしれませんが、伝承で残っている点を考慮すれば昔の地元の方々が、この猪解石を使われたのでしょう。また、改めて思うのは「昔の人は何でも器用で自ら食する分は、ほぼ全部を自らの手作業で解体、調理されたのだなあ」と言うことです。私なんぞは不器用なため恥ずかしながら魚を三枚おろすことさえ上手にできないので関心しました。
いずれにしましても、イノシシが増えた近年、「大村の話題」、「時の話題」の一つとして今回の猪解石を調べてみました。閲覧された皆様の話題になったかどうかは分かりませんが、このページを最後までご覧頂き、ありがとうございました。(このページ、新たな事項が分かればれば、今後追加掲載も考えています)
(初回掲載日:2011年10月22日、第2次掲載日:10月23日、第3次掲載日:10月25日、第4次掲載日:10月27日、第5次掲載日:10月28日)
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