最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク


大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

福重小学校の二宮金次郎像

 概要紹介
掲載中
 1)像の大きさなど
掲載中
 2)像について
掲載中
 3)碑文内容について
掲載中
 4)補足とまとめ
掲載中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中

福重小学校の二宮金次郎像(大村市福重町、福重小学校・東側校舎の前)

概要紹介
名称:福重小学校の二宮金次郎像<ふくしげしょうがっこう の にのみや きんじろう ぞう>
所在地:長崎県大村市福重町230番地、福重小学校 (東側の校舎前)
大きさや碑文など:下記の1)、2)、3)項目などを参照

 始めに、この「大村の記念碑、石碑や碑文」シリーズは、大村市内に点在している記念碑や石碑を紹介しているものです。戦前、二宮金次郎(二宮尊徳)像は、ほぼ全国どこの学校にもありました。

 しかし、戦後になり二宮金次郎(二宮尊徳)の功績は、賛否両論含めて様々な意見があり、評価も分かれています。今回のデータは、その論について述べるページではなく、あくまでも福重小学校にある一つの記念碑としての紹介データです。

 この像についての概要を述べますと、建立年は1944(昭和19)年9月で、
寄贈者(建立者)は柴田三郎氏です。本体は陶器製の立像で、小ぶりの陶像ながら姿形が、スマートで素晴らしいです。

 また、陶器製とは思えない位、像の細部まで良く出来ていて完成度が高いものです。ただし、残念ながら左手上部(本の片側ページ部分)が、何らかの理由で欠けているのと、左足前部分が表面剥離の状態となっています。

 先にも書いていますが、戦前どの学校にも当然、大村市内の小学校などにも沢山、二宮金次郎像はありましたが、戦後になり、その多くが壊されたか、なくなりました。現在、上野が見学した市内の範囲内では、今回の福重小学校、松原小学校、鈴田小学校など数校にあるだけのようです。

 そのようなことから、二宮金次郎(二宮尊徳)の人物や功績評価は別としても、像そのものの存在が大村市内に少ない関係上、貴重とも言えます。また、陶像がゆえに、今後の経年変化や劣化も少ないと推測されます。

1)像の大きさなど
 右側1番目の写真を参照願います。これから写真中央部に写っているのが、福重小学校の二宮金次郎像と、その土台石です。それらの大きさは、下表を見て頂けないでしょうか。

福重小学校の二宮金次郎像の大きさ
 像本体  高さ:130cm  横幅:45cm  奥行き:43cm
 土台石(自然石)  高さ:40cm  横幅:90cm  周囲:220cm

 像本体は、上表や写真の通り、小ぶりです。ただ、全体の高さやバランスとの関係からか、土台石(自然石)の横幅は本体横幅の約二倍あり、しかも楕円形状になっているため安定感があります。

2)像について
・陶器製の像

 
まず、私の見た範囲内ですが、大村市内で銅像や石像は沢山あり、よく見ます。しかし、高さ1mを越すような陶器製の記念像は、あまり見かけず、珍しい方だと思います。ただし、高さ30cm未満位の像は、宗教施設や各家庭などにも例えば仏像やマリア像などは、多くあるのではないかと推測しています。

福重小学校の二宮金次郎像(大村市福重町、福重小学校・東側校舎の前)

 そのようなことから、このような背丈もある陶器製像の評価をどう書くのか迷いながらも、今回一般的な見方で触れたいと思います。陶器製像は、乱暴な言い方かもしれませんが、日常使う例えば梅干しなどを入れる壺(つぼ)と一緒でしょうから、まず長所として経年変化に耐えられるということでしょう。屋外にある像は、銅像・石像とも強い太陽光線を始め雨露や風雪がありますから、どうしても建立当初より何十年か経てば彩色が変化します。

 しかし、陶器製品は何十年何百年経とうがほとんど色の変化はないと思われます。そのようなことから、福重小学校の二宮金次郎像も建立当初と同じように維持されています。

 逆に、陶像の短所は、何かの落下物その他の衝撃に弱いという点でしょう。実際、この像も残念ながら左手上部(本の片側ページ部分)が、何らかの理由で欠けているのと、左足前部分が表面剥離の状態となっています。

・二宮金次郎像の姿形
 本像の姿形についてですが、まず全国の金次郎像と同じ姿形で、像に込められている意味合いも同じです。つまり、背中に薪(まき)を背負って、正面では本を読んでいます。これは、歩きながらも寸刻を惜しんで勉強をしていることを表現しています。さらには、そのような努力と成果によって、あとで世のため人のために役立ったことをした模範的な人物であったとの思いもあろうかと考えられます。

 本像の評価ですが、全体スマートな仕上がりです。そして、元々は粘土細工でしょうが、それにしても目がパッチリと見開き、顔や髪の毛の表現力、さらには背負子(しょいこ)と草鞋(ぞうり)の縄目模様、薪の造りなど繊細に出来ています。

 真横から見ると完全直立ではなく、全体やや前傾姿勢になっています。このようになっているのは、背中に重たい薪を持っているので、その分前に踏ん張って歩き、そのような姿勢でも熱心に本を読んで勉強している姿を表現していると思われます。

福重小学校の二宮金次郎像の碑文(黄色線はCG。土台石の裏側)

3)碑文内容について
 福重小学校の二宮金次郎像の碑文は、土台石(自然石)の裏側にあります。(上から3番目=左側のCG写真参照) ただし、正面や両側面に碑文はありません。文字は、次の「」内の太文字の通りです。原文は左側CG写真の通り、縦書き2行ですが、ホームページ上、横書き1行に変えています。

 「 寄贈者 柴田三郎 」(注:他のページでは現代語訳もしているが、今回は分かりやすいので省略)

 この寄贈者の柴田氏は、大村市沖田町(当時の沖田郷)の人で、「仕事は鉄工所を営み、地域では福重の消防団長などをされた方」との伝承が残っています。

 あと、建立(寄贈された)年月は、碑文にはありませんが、当時の学校記録に1944(昭和19)年9月とあるようです。この建立場所は、現在地(旧・矢上郷=現在の福重町)ではなく、その前の皆同町(当時の皆同郷「城の前」、郡川右岸)に学校があった頃です。

 本像建立後の1944(昭和19)年10月25日、大村市はアメリカ軍によって大空襲を受けます。当時の海軍航空隊や第21空廠も大被害を受けました。その関係から福重小学校の場所に急遽新たに福重飛行場が造られました。飛行場建設により、学校全体が翌年=1945年に現座地に移転を余儀なくされました。

 ただし、戦争が終結した秋頃まで学校校舎など本格移築も出来なかったようです。ここからは推測にしかなりませんが、たぶんに福重小学校の二宮金次郎像も、校舎再建と同時期に移設されたものと思われます。

 今回、実物も何度か見て、さらには碑文をCG加工しましたので文字を良く見ました。まるで書道の手本みたいな漢字です。また、彫り方もメリハリの効いたバランス良いものです。あと、「贈」の文字は、旧字体の方ではな当用漢字です。そのため。この碑文は、戦後に造られた可能性も考えられます。

4)補足とまとめ
 上記の各項目で詳細に書いてきましたので、特別な補足などはありません。ただ、建立者とか建立年とは関係ないことですが、本像に向かって左側(金次郎の右手側)の読んでる本の上面に文字があります。(ただし、左手側部分の本は欠けている) この文字は、けっこう大きな文字ですが、内容は省略します。
私のような者には分かりずらい漢字もあるのですが、当時の子どもたちはスラスラと読まれていたのでしょう。

 冒頭の概要紹介にも書いていますが戦後になり、二宮金次郎(二宮尊徳)の功績は、賛否両論含めて評価も分かれています。ただし、大村市内で金次郎像そのものが少ないですし、さらに陶器製となると本像しかないようです。様々な意見は別としても、なんらかの機会に福重小学校の校庭にいらしゃった時に、一つの記念像として、ご覧頂ければと思っています。

 最後に、本像について史料が見つかったり、新たな情報が寄せられたならば、再調査して分かった範囲内で上記文章は改訂も考えています。


(初回掲載日:2014年4月25日、第2次掲載日:4月27日、第3次掲載日:5月1日、第4次掲載日:5月3日、第5次掲載日:5月6日)

 
大村の記念碑、石碑や碑文(目次ページ)へ戻る
大村の歴史個別ページ目次ページに戻る


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク