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(写真3) 南側にある境界石 |
概要紹介
江戸時代、萱瀬村を耕地で萱瀬上村6町歩(約9.500平方メートル)、萱瀬下村6町歩ずつ分けるために、南北に境界石を設置しました。その二つの石の間を結んだラインが上村、下村の境界線でした。今回紹介の境界石は、元々は二つありました。
しかし、現在は、(写真1、2参照)宮代町、萱瀬小学校バス停から郡川の上流方向へ行った国道444号線の(右側)石垣上部にある南側の境界石だけが残っています。この石の大きさは、目測で高さ1m強、幅60cm位の細長い目立つ石です。
あと、現在はありませんが、北側にあった境界石の場所は、大村市指定史跡「菅牟田古戦場の跡」近くで市道を挟んだ上部にある民家の門口にありました。何十年か前の道路もしくは門口の工事の時に、その境界石はなくなったようです。 (写真2)は、その石があった周辺(コンクリートが白く見えている付近に石があった)の写真です。
1)南側にある境界石について
(写真1と2)に写っている南側の境界石の場所は、萱瀬小学校前で、郡川に架かる朝追岳橋(あさおいだけばし)の所から国道444号線を上流側へ、約80m行きます。そして、今度は、逆に坂口(竹松や大村市街地)方面へ行く反対車線側に高さ約2mの石垣があります。(写真4)ならば、黄色文字のAの地点です。
先の石垣上の雑木林の中に、この南側の境界石があります。国道からならば (写真1)のように見えています。もう、今は、文字判読は難しくなっていますが、(写真1)の右側には、まるで立札みたいな説明板があります。上野の目測ながら、この南側の境界石の大きさは、高さ約1m、幅約60cmの細長い自然石です。この周囲にある石には、無いような細長い目立つ形状をしています。
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(写真4) A=南側にある境界石、B=北側にあった境界石(今はない)
AとBを結んだラインが萱瀬村を上村と下村に分けていた境界線
(グーグルアース写真に黄色文字を作成、加工) |
その訳は、私の推測ながら、もう一方の北側にあった境界石との中間部から見えやすいようにするためだったのではないでしょうか。そのことにより、萱瀬村の上村と下村を分ける境界線が、中間部で目視でも引けたのではないかとも想像されます。なお、この境界線は、直線で約350mあります。
ご参考までに、この境界線の理由だけではないでしょうが、このライン上には菅牟田川、里道(赤道)、市道の一部もあります。この川や道の直線部は、江戸時代当時の境界線と、ほぼ重なっているようにも見えます。
そのラインは、(写真4)に図示していますAとBを結んだ線です。なお、ご参考までに、現在は、このライン上の周辺には民家や農業用ハウスなどが立ち並んでいます。そのため、その建物からならば、境界石のAとBの大体の場所さえ視認しずらくなっています。
しかし、江戸時代は田畑、川、井手(用水路)だけしかなかった当時は、推測ながら、どの位置からも見渡せたと思われます。
2)北側にあった境界石について
(写真4)のBが、現在はありませんが北側にあった境界石の所です。この場所は、大村市指定史跡「菅牟田古戦場の跡」近くで市道を挟んだ北東上部にある民家の門口です。
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(写真2) 北側の境界石は現在ないが中央下部に石があった |
このお宅の方にお聞きしたところ、「何十年か前の道路もしくは門口の工事の時に、その境界石はなくなった」ということです。そして、その工事前に北側の境界石のあった場所も教えて頂きました。 (写真2を参照) その位置は、先の写真中央やや下部に白く写っているコンクリートの周辺にあったようです。
・なぜ、この場所に境界石があったのか
あと、ここからは私の想像ながら何故この場所に北側の境界石が置かれていたかと考えてみますと、この標高位置までならば(写真4)に写る萱瀬の谷(平野部)が、ほぼ全て見渡せるからと思います。
さらにいえば、この高さの横周辺には、郡川近くの平地より当然高い所(尾根の先端部)ですが、今でも耕作地(田畑)があります。そして、これ以上の高さになりますと、いわゆる「段々畑」みたいになっています。江戸時代当時、どの位置まで田んぼがあったの不明ながら、たぶんに北側の境界石のあった場所付近までは、水田として耕作されていたのではないでしょうか。
補足
(この原稿は、しばらくお待ちください)
(初回掲載日:2020年9月23日、第二次掲載日:11月15日、第三次掲載日:12月5日、第四次掲載日: 月 日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日、)
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