大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など | 警防団員殉職之碑 |
概要紹介 | 掲載中 |
1)碑文の内容 | - |
2)説明板の内容について | 掲載中 |
3)碑の大きさなど | 掲載中 |
4)評価や感想など | |
まとめ | - |
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。 |
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用語解説 ・警防団(けいぼうだん)=空襲に備えるため、消防組と防空を担当する防護団とを統合した団体。1939年(昭和14)結成、47年廃止。(広辞苑より) ・殉職(じゅんしょく)=職務のために死ぬこと。職責を全うするために生命を失うこと。(広辞苑より) ・消防団(しょうぼうだん)=市町村の自治的な消防機関。消防組の後身で、昭和22年(1947)の消防団令により発足。(デジタル大辞泉より) ・大村市消防団・第6分団(管轄地域)=松並一丁目、松並二丁目、桜馬場1丁目、桜馬場2丁目、森園町、古賀島町、西大村本町、植松1丁目、植松2丁目、植松3丁目、西乾馬場町 ・第6分団の詰所(住所)=大村市古賀島町300-21 注:警防団員殉職之碑も上記の写真や住所通り、第6分団詰所前にある。
1945(昭和20)年5月20日午後4時頃、大村市内松並郷銭壺(現在の「桜馬場1丁目、九州教具と桜馬場団地の境界付近」)に投下された不発弾の処理中に爆発事故が発生しました。 その作業中に被害に遭われた警防団員11名、兵隊2名、巡査1名、計14名が殉職されました。その霊を弔らうために建立されたのが、警防団員殉職之碑です。右脇(東側)には、本碑建立にあたってご芳志を寄せられた寄付者の石碑、その前には当時の不発弾の弾頭が展示してあります。 また、西側の歩道側には、不発弾爆発時の事故内容、さらには本碑の建立趣旨や経過などについて、詳細で分かりやすい説明板も設置してあります。 本碑の建立は、1957(昭和32)年5月20日ですが、当初の場所は、西大村本町の大村市消防団・第6分団詰所にありました。その後、先の分団の移転にともない、現在は、古賀島西公民館の隣にある第6分団詰所前(西側)にあります。(写真1、2を参照) また、本碑の建立は、当時の大村純毅市長の提唱により、関係者の寄付や協力を得て建てられたといわれています。なお、毎年5月20日には、第6分団が主宰者で慰霊祭が開催されています。 1)碑文の内容 注:現在、本碑に彫られている碑文が目視では見えにくいため、後で調査して判明すれば、この項目に書く予定。なお、本碑の内容は、下記の「2)説明板の内容」のもとになったものと思われる。ただし、内容そのものは、両者とも大きくは変わらないものの、説明板が新しくできた分、文章表現などが一部違うようだ。 (碑文そのもの内容は、調査できればに掲載予定である) 2)説明板の内容 この項目は、警防団員殉職之碑の左脇(西側の歩道寄り)に設置されている説明板の内容を紹介しています。念のため、本碑に彫られている碑文の内容ではありません。説明板も彫られている碑文内容も、ほぼ同じですが一部、表現上で違う文面もあるようですが、その点はあらかじめ、ご承知の上、下記は参照願います。 説明板の内容は、下記< >内の青文字部分です。 (写真3)に写っている説明板の文字は、写真でもお分かりの通り、全て縦書きす。今回、ホームページ用に横書きにし、また一部、改行、太文字、その他も変えています。もしも、引用される方は、」必ず説明板の原版からお願いします。
沿革 由来 第二次世界大戦中、大村は海軍基地及び第二一海軍航空廠が所在した関係で三〇数回の爆撃を受けた。その間、警防団員は昼夜の寝食を忘れて人命救助と防火に尽力していた。 ところが昭和こ○年五月二〇日午後四時ころ、市内松並郷銭壺に投下された不発弾の処理中、突如爆発し警防団員一一名、兵隊二名、巡査一名の計一四名が一瞬にして肉塊と化し、壮烈な殉職を遂げられた。その霊を弔うため、大村純毅市長の提唱により、関係者の協力を得て本碑が建立された。 建立年月日 昭和三二年五月二〇日 (西大村本町旧六分団詰所横) 現在地移築 平成四年五月二〇日 揮豪 大村市長大村純殺 (当時) 管理 大村市消防団第六分団 慰霊行事 毎年五月二〇日第六分団主催慰霊祭 (註)「銭壺とは現在 桜馬場一丁目 九州教具と桜馬場団地の境界付近」
平成の始めの一九九五年頃、爆発現場付近の工事中、二五〇キロ爆弾と思われる爆弾の弾頭が発見された。 陸上自衛隊大村部隊に鑑定を依頼したところ、戦時中のアメリカの二五〇キロ爆弾に間違いないと言う、結果の報告を頂 いた。 また、投下時に爆発していなければ弾頭はこの様には残らず、地中に突き刺さった状態で後部信管操作中の爆発だったため、弾頭部分が残ったとのことである。 碑銘板 平成二五年五月二〇日 大村市消防団第六分団 大村市消防団第六分団後援会 > ・説明板の大きさ 本体部:高さ1m、横幅1,22cm 全 体:高さ1m72cm、横幅1m22cm 3)碑の大きさなど このページの(写真1、2)を参照願います。先の写真に写る、やや細長い大きい自然石が、警防団員殉職之碑の本体部です。そして、その下側が、自然石の台座です。さらに、その下側が土台の石垣になっています。それらの大きさと、緯度経度は、下表二つを参照願います。あと、下表の数値は、あくまでも参考程度に、ご覧願います。また、数値未記入欄は、ご容赦願います。 なお、大村市内には、今回のような自然石で造られた石碑は、沢山あります。例えば建物、道路、橋、さらには墓碑や石塔類です。ただし、殉職を慰霊する石碑は、市内では唯一ではないでしょうか。また、造りも規模のやや大きい石垣を最下部に、その上に土台石、さらに上部の本碑が、天へ聳(そび)えてるようにも見ます。あと、警防団員殉職之碑碑は、この当時(1957年)の建立されたものとして、その形状、大きさや頑丈さからして、なかなか立派なものです。
4)評価や感想など この項目について、あらかじめ申し上げますが、全て上野個人の評価や感想です。なお、私は、「大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など(もくじページ)」の表示項目数でもお分かりの通り、既に掲載中の記念碑(慰霊碑)や石碑類だけでも、60基以上です。(ただし、ホームページ未掲載もありますので、実際の調査数は100基近くを2020年現在までに実施しています)
(1) 大村市内で職務上による殉職の慰霊碑それ自体が少なく、おそらく、この1基のみであろう。 (2) 戦争や空襲による犠牲者を弔う招魂碑・慰霊碑・空襲記念碑は、市内に10基近くあるが、不発弾の爆発という非常に特別で、しかも一瞬で14名もの殉職された方を祀る慰霊碑は、本碑1基のみである。 (3) 慰霊碑本体の大きさだけでなく、土台石や石垣の造りなども含めて、建立当時のものとしては立派である。 (4) 説明板の文章から推測して、慰霊碑本体の碑文も簡潔で分かりやすい内容と推測される。 (5) 毎年5月20日、本碑前にて遺族、大村市消防団第6分団、後援会や関係者が慰霊式を挙行されているが、このような事柄で毎年の実施例は数少ないと思われる。 ・慰霊碑のことではないが、分かりやすい説明文とともに不発弾の弾頭部分も展示してあるのは、爆発の凄まじさや、殉職者の命を一瞬にして奪った遺物として、後世へ伝えていくべきものと思われる。 補足 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください) 初回掲載日:2021年1月15日、第二次掲載日:2月4日、第三次掲載日:2月7日、第四次掲載日:2月10日、第五次掲載日:2月14日、第六次掲載日:2月24日、第七次掲載日: 月 日) |
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