大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など | 沖田郷の道路改修記念碑 |
概要紹介 | |
1)記念碑内容について | 掲載中 |
2)記念碑の大きさなど | |
緯度経度など | |
まとめ | |
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概要紹介
しかし、「大正十四年四月」(1925年4月)当時は、当然のごとく先の草薙部隊も郡中学校も全くない、田畑ばかりだった時代です。下図=「図A:沖田郷中心の地図」に図示した赤枠線(現在の郡中学校敷地)は、分かりやすくするために描いたものですから、あらかじめ、ご了承願います。 ・記念碑の元あった道路は
・「改修」よりも新設の道路建設に近い工事だったのでは |
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1)記念碑の内容について
沖田郷 道路 改修記念 大正十四年四月建之 現代語訳(口語訳:「沖田郷の道路改修記念碑、大正4年(1925)4月に之(これ)を建てた。(建立した)」 この大きい碑文のある下段には、小文字で道路工事にあたって寄付した人の氏名及び金額、さらには建設委員の氏名が彫ってあります。その人数を先の資料を引用して、村・郷(町)別に書きますと、次の<>内太文字通りです。ただし、見やすいように漢数字は、アラビア数字に変えたり、一部補足や省略もしています。 <(福重村の)沖田郷11名、竹松村5名、松原村2名、福重村3名、長崎市2名。総員23名。 建設委員4名。 寄付金総額605円 > ご参考までに、上記の寄付した方々で、沖田郷(町の人は現在も、ご子孫が沖田町に在住され、上野も知っている方が多いです。また、ここからは私の推測ながら、寄付者で「竹松村5名」と人数が多いのは、この道路が単に沖田郷(町)内だけでなく、一部において福重村・沖田郷と竹松村の境界で、竹松側へつながる道路も一緒に改修工事がなされたからと思えます。 あと、他の福重村・松原村・長崎市(在住)の氏名の方は、沖田郷の出身者(親戚)や、その地域の有力者(裕福な方)と推測されます。いずれにしても、多くの寄付者のご厚志(寄付)によって、この道路工事は完成したものです。だからこそ、この記念碑も建立されたのでしょう。 |
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2)記念碑の大きさ、緯度経度など
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