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2015年度・福重小学校・郷土史クラブ(1)
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写真を使いながら上野が講話中

2015年度・福重小学校・郷土史クラブ(1)
日時:2015年11月25日、14時55分〜15時45分   場所:福重小学校
出席:全体12名(児童は8名、先生方3名、福重郷土史同好会・上野)
講話:上野 

主な内容:福重の城について
 今回の郷土史クラブでの講話の主な点は、城の役割や福重に五城あった城名称(尾崎城岩名城好武城今富城江良城)、場所、特徴点などでした。その中でも、今富城好武城の2城だけは、写真や資料を用いて説明を加えていきました。それらの概要は、下記の通りです。

(1)城(しろ) → 城跡(しろあと)
 城とは:(てき)の侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐために造られた建築物(けんちくぶつ)。 戦国時代当時は、コメが出来る地域の戦(いくさ)が多かった。それはコメ自体が、お金の役割、税金のかわりになっていて、大変大事だった。そのコメの沢山できる土地をめぐる戦が多く、この土地を守るためにも城は必要だった。 (参考までに、地図のマークも表記)

今富城の横堀(空堀)

2)福重にあった五城の名称と場所
 (1)今富(いまどみ)城跡-----皆同町 、 (2)好武(よしたけ)城跡------寿古町 、 (3)尾崎(おさき)城跡-----今富町 、-----(4)岩名(いわな)城跡-----今富町 、 (5)江良(えら)城跡-----草場町  (注:先の順番は古い順ではない)

 正確な古記録がないので詳しく言えないが、いずれの城も戦国時代に造られ、その時期も大きな差はないと思われる。
 
3)今富城跡について(写真4枚で説明)
 ・2007年の発掘時に北側から横堀(空堀)が出てきて有名になった。ただし、現在は埋め戻され見れない。
 ・福重住民センターから登る場合、切通(きりとおし)を通る。これは、現在も見れる。

4)好武城跡について(写真2枚で説明)

  ・本丸跡、土塁(どるい)跡が本丸周辺に見れる。
 ・ここは直ぐに見学しやすい所である。

5)福重の城は、何故なくなったのか?

 ・政治(せいじ)の中心地が変わったため。 (今富城から三城城に移った)
 ・戦(いくさ)がなくなり、不用になった。
 ・(後で住宅地、田畑になった)

6)質疑応答
 児童からの質問全体の概要と上野からの答えは、次のQ&Aなどに書いている通り。
Q1:城用の石は、どこから運ばれてきたのか?
A1:福重には本格的な石垣のある城はない。少しの石があったとしても、それは城周辺から運ばれてきた石だろう。

Q2:皆同町にあるのに、なぜ今富城と言うのか?
A2:戦国時代(江戸時代中頃まで)は、あの城がある所も含めて今富村と呼ばれていたためだろう。当時の今富村は、今よりも広くて大きな村だった。

Q3:城の中には、何人位いたのか?
A3:(記録などがないので想像ながら、例えば今富城の場合)戦の時には大勢(何十名〜数百人)いただろう。しかし、戦のない普通の日は、大勢は必要ないので、せいぜい数十人位だったろうと思われる。

Q4:城は何人くらいで造ったのか?
A4:福重には本格的な石垣の城はなくて自然の地形を利用して造られたので、そんなに多くなかっただろう。建物も今の民家よりは大きかったが数十人位で建てていったと思う。ただし、玖島城(大村城)みたいな高い石垣や大きな建物を作る場合、何百名も働いただろう。

Q5:今富城の元々の状況は、どうだったのか?
A5:小高い元の敷地は縦横広かったが、国鉄(JR)・大村線の鉄道盛土などにするため、南側が半分近く大きく切り崩された。
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 以上が、福重の城についての講話と質疑応答のあらましです。城のことを述べる場合、児童には馴染みのない城用語(ほぼ全部が漢字で専門用語)が多いので、A3サイズのひらがな資料は用意して行きましたが、それでも聞く方側は難しかったのではないだろうかと思いました。

 しかし、何人かの児童は事前に独自で調べられたのか、なかなか鋭い質問もあり、私は考えながら応えた事柄もありました。あと、教室で写真や資料を見るだけでなく、実際の城跡見学した後、質疑応答した方が、より実感が湧くのではないかとの印象も持ちました。

 次回の郷土史クラブ:2015年12月9日(水)



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