今富町・史跡調査報告
日時:2018年3月18日19時30分〜13時50分
参加:4名(大村市役所の方:2名、福重郷土史同好会:2名)
場所:今富町・冷泉寺や帯取周辺が中心
調査した主な史跡名、感想、今後の考えなど(順不同)
(1)「(通称)弥空郎坊」の石祠と周辺の石塔の欠けら
この石祠や後方の自然石は白水寺の住職の墓碑と言われている。そのため白水寺を向いている。 ただし、名称の 「弥空郎坊」は、石祠建立時に付けたと聞いている。
石塔の欠けらは、冷泉寺集落から集められたものと言われている。
(2)岩屋権現跡
この岩屋権現跡の場所は今まで書籍類に記述されていない所であった。現在、石庭園みたいになっている場所周辺が岩屋権現跡と思われる。 (詳細は、岩屋権現跡ページを参照)
(3)飛び石と諸刃の石垣
冷泉寺集落上部の丘に長さ30メートルほどの飛び石がある。ここは赤道(あかみち、里道)で、地元では「てらじ」(寺路、寺地)とも呼称されてきた。この飛び石から数十メートル離れたブドウ畑脇に諸刃の石垣がある。<諸刃の石垣=「古い武家屋敷」みたいに思われているが、実際は近代でも新しい石垣とも言われている。古いと断定せずに調査した方が良いと言う>
(4)大村藩領絵図に図示されている十二社権現跡
十二社権現(帯取殉教地でもある)は、大村藩領絵図に図示されている。それは(後世の”しこ名”で)「十二社」とも呼ばれてきた場所である。絵図に図示されている場所周辺を見学した。
この場所は戦前戦後、石切り場(砕石場)になったため十二社権現の境内は、地形としては削られていると思われる。 (詳細は、十二社権現跡(本当の)「帯取殉教地跡」ページを参照)
(5)帯取塚のあった場所
字(あざ)「帯取」の地名発祥の地とも言われてきた帯取塚のあった場所周辺を見た。
(6)現在の十二社権現の場所
帯取集会場の中に、十二社権現がある。そして、氏子の方々が毎年祭っておられる。集会場脇に鳥居の欠片などがある。
(7)「てらじ」(寺路、寺地)と呼ばれている丘周辺
ブドウ畑の中から出てきた石塔類の欠片、諸刃の石垣、戦前には海軍兵舎になっていたという丘の平地周辺を見学した。
(8)冷泉寺跡の推測地
1987(昭和62)年3月22日に制作された「福重の史跡」(福重小学校所蔵の写真アルバム式史跡紹介)による「冷泉寺跡の推測地A」を見た。冷泉寺集落前の市道には、かつて「どん川(寺に関係あるような堂川のことか? 現在はない)」とも言われていた川があった。これらは冷泉寺跡推測地の一つであるが、まだまだ他の説もあるので、広範に調査が必要である。
(上野の補足と感想)
「歴史事項は一回見たので書いたので、もう終わりではない」と諸先輩各位からお聞きしていました。当然、今回の史跡内容も固定的に考えるのではなく、多くの人から様々な角度から見て頂き、様々な意見を拝聴するという観点では、多くの成果がありました。さらに、まだまだ見つけきれない史跡も福重地区には眠っていることと思われます。
間違っている歴史紹介内容は、当然正しながら、今後も新たな情報収集や調査に努めていきたいと考えています。今回調査に参加された皆様、大変お疲れ様でした。
(以上)
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