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福重の名所旧跡や地形

十二社権現跡(今富町) (本当の)「帯取殉教地跡」>

十二社権現跡(じゅうにしゃごんげんあと) 場所:長崎県大村市 今富町<字(あざ)は橋口>


 十二社権現の創建は、不明です。何らかの理由で一旦無くなりましたが、正保年間(1644年〜1648年)に再建されています。そして、推測ながら明治元年(1868)、明治政府による神仏分離令とともに廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、再び破壊されたと思われます。現在は、各所に、その鳥居の欠けらが点在しています。

 十二社権現の所在地について、江戸時代に作成された大村藩領絵図及び(大村)郷村記によって、ほぼ正確な場所が分かっています。(下記掲載の拡大絵図と、現在の概略図参照) また、その地名の字(あざ)は、「帯取(おびとり)」ではなく、正しくは橋口(はしぐち)です。

 なお、1617年(元和3)、この十二社権現の境内でキリシタン宣教師2名が殺害されたことにより、現在、大神宮への道路(細い農道)入口近くの市道脇に帯取殉教地記念碑が建てられています。しかし、先の大村藩領絵図及び(大村)郷村記に記述されている十二社権現の所とは全く違う、350m弱も大きく離れた場所間違いに記念碑が建っています。 <左図:大村藩領絵図(複写)である。ただし、十二社権現の名称先頭に丸印と、同下部に薄青色の蛍光線を引いている>

大村藩領絵図と現在の概略地図
1)大村藩領絵図に図示されている十二社権現
  まず、下図左側、大村藩領絵図の下部をご覧願います。紺色の幅広い線が、やや斜め横(東西)に描いてあります。これは、郡川(こおりがわ)です。同色で、やや太い線で、右側(東側)の上下(南北)に流れているのが、佐名河内川(さながわちがわ)です。その郡川の上部(北側)に、私が少しだけ斜めで薄い青色蛍光線を引いているのが見えます。これは、十二社権現文字のアンダーラインと、その文字先頭部に丸印を付けたものです。

 この絵図にある十二社権現の文字は、分かりやすい場所です。なぜなら、周辺の丘陵地帯も、近くを通る道路も正確に描かれていて、それらは現在の地図や航空写真とも、ほとんど同じ状況です。また、絵図の描き方でもお分かりの通り、十二社権現のあった場所は、こんもりと繁った林(雑木林)だったことが、良く分かります。その上側(北側)方向(約440m)にある太神宮周辺も、雑木林に囲まれています。このように、昔から大村の場合、神社仏閣は、その周辺が、木々に囲まれた例が多いです。

 それに比べ、現在、帯取殉教記念碑のある所(絵図の中央部)は、木々が何もない広い畑のように描かれています。当然、神社仏閣(跡)を表示する文字も全くありません。つまり、戦国時代も絵図の描かれた江戸時代も、この周辺は耕作地=畑として、長年利用されていたことが分かります。

現在の概略地図

2)現在の概略地図
 次に、上側の右図をご覧願います。この概略地図は、大村藩領絵図に描かれている十二社権現の場所などを、ほぼ正確に現在の地図(グーグルマップ)に当てはめたものです。  =十二社権現跡  B=鳥居跡(銘板や柱(足)などがある所)(帯取集会所の直ぐ北側) 、 C=帯取殉教記念碑のある所(4個ほどの鳥居の欠けらがある) 

 1617年(元和3)、キリシタン宣教師2名が殺害されたのは、十二社権現(の境内)と言われていますから、概略地図や航空写真のもしくはその東側周辺が、本当の十二社権現跡と言えます。この概略地図から計測しますと、 十二社権現帯取殉教記念碑のある所の距離は、概算で350m弱も離れています。つまり、この記念碑は殉教の場所とは、全く違う所に立られているということです。

十二社権現跡と違う所に立つ帯取殉教地記念碑(つまり、殉教地の場所間違いである)

 なぜ、このような間違いが起こったかと言いますと、それは、記念碑を建立する前に、この周辺に鳥居の欠片(かけら)が4個ほどあったので、それを見て「ここが十二社権現跡=殉教地跡」と間違って判断されたためです。間違われた経過その他は、別のページで詳細に書く予定です。

 地元の方の話によると、「壊された鳥居の欠片(かけら)は、畑の泥の流れを防ぐために、石垣替わりとして、あちこちで使われ、そのたびに移動していた」と言うことです。つまり、特定の場所に長年置かれたものではなく、色々な場所にあったものです。さらに問題なのは、殉教地を調べた方々が、地元の方(地域の物知りや、有力者など)に聞き取り調査をされずに判断されたからだと思われます。

 既に、先の項目に書いた大村藩領絵図の十二社権現の状況などをたとえ知らなくても、地元の方々に聞くだけでも、このような帯取殉教地記念碑の大きな場所間違いは、発生しなかったはずです。また、後の「大村郷村記と現代語訳」項目に書いていますが、この十二社権現の本来の地名は、字(あざ)の「橋口(はしぐち)」ですから、このことからも宣教師の聞き違い、書き間違いであったことも大村郷村記を読めば直ぐに分かっていたはずです。

 あとご参考までに、通常の場合、鳥居は社殿へ登って行く参道の低い入口、あるいは境内(神社の敷地)入口付近にあるものです。帯取殉教地記念碑のある場所は、この周辺の丘陵地帯では低い所ではなく、高い位置です。なお、「殉教地=鳥居があった所」というより、常識的には境内(社殿前の広場)で、斬首(ざんしゅ)がおこなわれたと考えるのが普通ですから、二重三重に、記念碑の場所は十二社権現跡ではないです。

大村藩領絵図の十二社権現(薄い青色蛍光線の上側)

(大村藩領絵図と同じ場所=の)十二社権現跡(グーグルアースに赤文字で描いた) 注:ここは今でも字(あざ)は帯取ではなく橋口である。

現在の概略地図(ACの間は350m弱も離れている) <字(あざ)も「帯取(おびとり)」は間違いで、橋口(はしぐち)である>

大村郷村記と現代語訳
 ・大村郷村記に記述されている十二社権現
 十二社権現について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)119ページに記述されています。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。また、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。

 念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。

 あと、文章の先頭に場所を表す「同所」という文字があります。これは、十二社権現の前の項目に岩屋権現の記述があり、そこには「橋口(はしぐち)」という地名=字(あざ)があるため、「前の場所と同じ」という意味で、「同所」と書いてあります。なお、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。

同所
 一 十二社権現  神躰石弐ツ (宮代今富兵右衛門 例祭九月七日 妙宣寺勧請) 氏子中祭之
       神殿 四尺ニ五尺 瓦宇
       拝殿 弐間方 萱宇
       石鳥居 二基
       境内七間二拾九間

 此地先年権現垂跡ありし処と云 伝故に正保年中旧蹟に再興す 万治元戊戌年九月七日再建導師深重山六世通正院日這 施主朝長清五左衛門 并家来六兵衛右神石は清五左衛門尾崎古城の脇椎木淵より持参勧請のよし由伝 天保六乙未年正月再建


<現代語訳>
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、大村郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、十二社権現の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

  同所(注:橋口のこと) 一つ 十二社権現  ご神体は石二つである。(宮代=宮守は今富兵右衛門である。例祭は妙宣寺に来てもらって9月7日に執り行われている) 氏子(うじこ)達で祭られている。

 神殿は奥行4尺(約1.2m)に、横幅5尺(約1.5m)の瓦屋根(かわらやね)である。拝殿は2間(約3.6m)四方である。石の鳥居が2基ある。境内の広さは奥行7間(約12.7m)に、横幅19間(約34.4m)である。

 この地は昔から権現跡と言われてきた所である。(そのような)伝承だったので正保年間(1644年〜1648年、注:江戸時代初期)に旧蹟=元あった場所に再興(再建)された。

  万治元年(まんじがんねん、1658年)戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)年の9月7日に深重山(妙宣寺)の第6代導師(住職)の通正院日這によって再建(改築)された。施主は朝長清五左衛門ならびに家来の六兵衛であった。

 右のご神体の石は(朝長)清五左衛門が、尾崎(おさき)の古城の脇にある(佐奈河内川=さながわちがわ)椎木淵(しいのきぶち)より持参して、勧請したとの伝承がある。天保(てんぽう)6年(1835年)乙未(きのとひつじ、いつび)年1月に再建(改築)された。


・現代語訳の補足
 上記の青色文字は、あくまでも大村郷村記を補足や注を交えながら現代語訳に変えたでだけです。この項目では、そのことから特徴的な内容を脱ぎ書きして、箇条書き風にまとめてみたいと思っています。

<大村郷村記から十二社権現の特徴点>

 (1)十二社権現の場所は、字(あざ)橋口(はしぐち)である。(注意:字の「帯取(おびとり)」は、この橋口の東側である)

 (2)十二社権現の創建は不明ながら、何らかの理由によって、いったん全て無くなったと思われる。その後、大村郷村記通り、「正保年間(1644〜1648年)に再建された。その場所は、十二社権現が元々あった所なので、それを由緒に同じ場所に再建された」と記述されている。

 (3)「境内の広さは奥行7間(約12.7m)に、横幅19間(約34.4m)である」と書いてあるので、この地域周辺にある旧家の敷地より、狭い面積と思われる。

 以上の特徴点でも、十二社権現についての元々からの場所、再建の年代、さらには境内の面積などが良く分かるものです。ただし、大村郷村記それ一つだけの内容で、全てを判断・断定するのは要注意です。そのため、場所を考える上で、別の史料として、大村藩領絵図があります。

 既に、「1)大村藩領絵図に図示されている十二社権現」項目に書いています通り、この絵図上からも、十二社権現のあった場所は、字(あざ)橋口(はしぐち)であることを裏付けています。その意味で、先の大村郷村記内容は、正確と言えます。

地元での伝承


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)


補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい)


大村藩領絵図の出典:九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)より

・(現代版)概略地図はグーグルマップから上野が文字などを記入した。

(掲載日:2016年8月5日、第二次掲載日:8月12日、第三次掲載日:8月13日、第四次掲載日:8月14日、第五次掲載日:8月15日、第六次掲載日:8月20日、第七次掲載日:12月29日、第八次掲載日: 月 日)



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