|
福重郷土史同好会
2019年の活動報告(8) |
目次ページに戻る |
|
||||
2019年、鈴田小学校での地域学習<郷土史講話>(概要報告)
日時:2019年5月31日11時00分〜12時40分 |
||||
下級生に教えることは良いことで、すばらしいこと 皆(みな)さんは、下級生(かきゅうせい)におしえるために、今回(こんかい)しらべているときいた。みなさんが、6月の説明(せつめい)は、”先生(せんせい)だ。 人へ、おしえることは自分も勉強(べんきょう)しないと、おしえられないし、たいへん良いことで、自信(じしん)もつき、すばらしいことだとおもう。ぜひ、がんばってほしい。 史跡(しせき)とは 今日(きょう)は、鈴田の史跡(しせき)の話で、この言葉(ことば)が、たくさん出てくる。史跡(しせき)の国語辞典(こくごじてん)の解説(かいせつ)は、かえって難しい(むずかしい)ので、下記のことではないかとおもう。 1)史跡(しせき)とは、歴史(れきし)のあった、ある場所(ばしょ)のこと。 1,記録(きろく)に書いてあるところ。 2,言い伝えがあるところ。 など 2)しせき(史跡)をしらべる時に、大事(だいじ)なこと (1)名前(なまえ)、 (2)年月日(ねんがっぴ)、 (3)場所(ばしょ)、 (4)目的(もくてき)、 (5)だれが作ったのか (6)大きさ、広さ など このようなことは、むずかしいことではない。たとえば自分におきかえてみて、(1)は自分の名前、(2)は自分の誕生日(たんじょうび)の年月日、(3)の場所は自分が現在住んでいる所、(4)の目的は、鈴田小学校で勉強することなどと同じである。 ただし、全部(ぜんぶ)がぜんぶ、史跡(しせき)の記録(きろく)は、そろってあるわけではない。(上記のことが)分からないことが多い。また、このような項目(こうもく)は、下級生(かきゅうせい)から質問(しつもん)も、おおい内容(ないよう)かもしれない。 下記からは、上記の講話の主な内容と、児童から質問と、それに対する答えなどである。 |
||||
この鬼の石の場所(ばしょ)は、小川内町の墓(はか)から直線(ちょくせん)で西へ200メートルくらい行った畑の脇(わき)である。 石の大きさは、高さ約4m50m、横幅(よこはば)約4m80cm、外周(がいしゅう)約18m50cm.くらいある大きな石である。みなさんも、鬼の石に先生と行かれた時に、巻尺(まきじゃく)で測って(はかって)みてほしい。そうすれば、良く分かると思う。 この鬼の石については、史跡説明板(しせきせつめいばん)が、今年3月にたてられた。それによれば、おもに次のとおりである。 鬼(おに)がフンドシ(したぎ)に石をのせて、鈴田の谷(たに)をわたっていたところ、ポロリとおとしてしまったので、「鬼の石」とよばれてきた。また、鬼が鈴田の谷をまたいだときの右の「足形(あしがた)」という地名(ちめい)が中里の山の中にあると」いう。 私も、この地名(ちめい)の所(ところ)を探しに4年前くらいに近くに行ってみた。しかし、地元(じもと)の方のはなしによると、「足形(あしがた)はヤブなってしまって、いまではわからない」ときいた。 <質疑応答(しつぎおうとう)> Q1:鬼の石は、どうしてできたのか? A1:(鈴田でのいいつたえは、話したとおりだが) ほんとうは、火山(かざん)がつくった石だろう。 Q2:「足形(あしがた)」は、どこにあり、どんな形(かたち)だったのか? A2:中里の山にあって、むかしは、その形が見えていたという。いまは、ヤブなって。わからない、形(かたち)は、足のかたちだったとおもうが、土地(とち)=田畑(たはたけ)なので、きれいな足の形ではなく、たぶん半分(はんぶん)くらいで、にていた所(ところ)とおもう。 Q3:鬼の石の周り(まわり)の大きさは? A3:鬼の石の大きさは、高さ約4m50m、東面(ひがしめん)の横幅(よこはば)約4m80cm、外周(がいしゅう)約18m50cm.くらいある。人によって、どこを横幅(よこはば)というのか、ちがいがあるので、東面(ひがしめん)とか、北面(きためん)といった方が、正確(せいかく)だ。 Q4:鬼の石の重さ(おもさ)は、いくらあるのか? A4:わからない。上野の宿題(しゅくだい)にさせて下さい。おそらくは、何十(なんじゅう)トンもあるだろう。 <鬼の石のくわしいことは、ここからごらんください> |
||||
地主大明神について、そのなまえのとおり、土地(とち)をまもる神様(かみさま)とおもう。水害(すいがい)などがなく、ゆたかにコメなどがとれますようにねがっているとおもわれる。そして、この地主大明神(ちゅうずだいみょうじん) は、古松など、いろいろとひっこしして、今のところにある。 できたのは、江戸時代 (えどじだい)の初期(しょき)と言われている。石のほこらのまんなかに、「文政」(ぶんせい)九年」の文字(もじ)がある。西暦(せいれき) 1826年に、このほこらは、たてられた。 ほこらの中に、大国様(だいこくさま)と、えびすさまがある。だいこくさまは、右手に打ち出の小槌(うちでのこづち)をもって、左手には、袋(ふくろ)をもっている。 えびすさまは、右手に釣り竿(つりざお)をもって、左手にはさかなのタイをもっている。ただし、今は、釣り竿(つりざお)がなくなっている。こんど行ったときに、見てほしい。 鈴田の名前のきっかけ=田んぼから出てきた鈴のはなし ・地主大明神(ちゅうずだいみょうじん)近くの田んぼから鈴(すす)が出てきた。それを、きっかけに、それまでの今里村(いまぞとむら)から、鈴田村(すずたむら)にかわった。 ・鈴(すず)の意味(いみ)=清水(しみず)、わき水---豊か(ゆたか)な水のある水田(すいでん)---コメ(米)などがたくさんとれるところ。つまり、鈴は縁起(えんぎ)がよいので、村のなまえになったとおもう。 <質疑応答(しつぎおうとう)> Q1:鈴(すず)が出てきたのは、いつか? A1:せいかくには、わからないが、江戸時代(えどじだい)だろう。 Q2:鳥居(とりい)いつ、こわされたのか。なぜ、こわされたのか? A2:明治維新(めいじいしん)。今から150年前に、こわされたとおもう。 Q3:鳥居(とりい)があったとしたら、その大きさは? A3:高さも横幅(よこはば)も2mくらいはあったとおもう。 Q4:(石のほこらの)横(よこ)にあるのは、なにか? お地蔵(じぞう)さんか? A4:そのように見えるが、あとで調べたい。また、みなさんも陰平町(かげひらまち)の方に、きいてみたら、どうか。 <地主大明神のくわしいことは、ここからごらんください> |
||||
上野の感想 私が、担当した鈴田小学校での地域学習は、今年で4年目となりました。児童自ら、住んでいる地域の史跡を調べ、それをまとめ、さらに下級生に(6月)現地で教えることは素晴らしいことだと思っています。そして、6年生が下級生へ教えることは、自信にもつながることでしょう。あと、今年は、クイズを出した時、また質疑応答のときに、活発に手をあげるのも目立っていました。 私は、例年思うのですが、このような地域学習は、自分の郷土に誇りを持てるだけでなく、将来含めて何かに役立つ場合もあります。私のささやかな経験ながら、多くの方との話題になっただけでなく、仕事でも実際に役立ってもきました。また、鈴田小学校での「地域学習」は、校長先生はじめ先生方が、いつも異口同音に話されている「児童に郷土の美しい自然や豊かな歴史を学ぶことによって住んでいる地域に関心持ってもらいたい」が、具体的に実践されている一環だと、私は思っています。 6月の史跡前での説明で、下級生に教える6年生の姿が目に浮かんできます。今年も、最上級生として立派に、”先生役”を果たされるでしょう。 最後に、今回の「地域学習」(郷土史講話)に出席された皆様、お疲れ様でした。 (以上) |